二本松城(霞ヶ城)へ行ってきました。
霞ヶ城は二本松藩の藩庁で、
戊辰戦争の激戦地として知られ、
二本松少年隊の悲劇の現場でもあります。
戊辰戦争は会津戦争が知名度が高く、
次は長岡戦争といったところですが、
この二本松で起こった戦いも、
もっと知られるべきではないでしょうか?
会津戦争の前哨戦のような描かれ方が多く、
二本松戦争はさらっと流すか、
完全にスルーされるパターンが多数。
これは二本松少年隊を詳しく描くと、
白虎隊の悲劇が薄れるからでしょうか?
どちらかというと二本松少年隊の方が、
悲劇のオンパレードです・・。
郡山から電車で20分強。
駅から出ると銅像がお出迎え。
「二本松少年隊像[霞城の太刀風]」。
刀で突くようなポーズの少年兵の像。
成田才次郎(14)をモデルとしたもの。
後記しますがこの成田少年が、
二本松少年隊で最も知られた人物でしょう。
銅像のタイトル[霞城の太刀風]は、
二本松戦争を描いた戦前の小説の題名。
サイレント映画にもなった作品という。
駅より歩いて霞ヶ城へ向かいます。
駅前を進むと藩の総鎮守二本松神社があり、
それを右に曲がって信号を左へ進むと、
お城に向かう道です。
「二本松城大手門跡」。
緩やかな登り坂を進むといきなりあります。
周囲になじみすぎてスルーしそうですね。
現在は石垣が残されていますが、
当時は立派な櫓門でした。
通称[坂下門]と呼ばれていたようで、
門前には堀があったという。
「二本松少年隊 小沢幾弥17才戦死之地」。
大手門を過ぎるとすぐにあります。
小沢少年は砲術師範朝河八太夫の門下で、
開戦後は朝河隊に配属されました。
愛宕山に布陣した朝河隊でしたが、
新政府軍の猛攻にあえなく壊滅。
薩摩の伊藤仙太夫が瀕死の少年を発見し、
無残な姿の幼い少年に伊藤が声を掛けると、
少年は「敵か?味方か?」と問いました。
「味方だ。遺言はないか?」と訊ねると、
少年は手振りで介錯を求めるので、
伊藤は武士の情けと介錯します。
その指の爪はほとんど剥がれており、
残った爪には土が詰まっていました。
後日、近くの土が盛り上がっている所を、
掘り返してみると、
朝河八太夫の遺体が埋まっており、
隊長であり師でもある朝河を運んできて、
素手で穴を掘って埋めたとわかりました。
そのまま進むとだんだんと坂が険しくなり、
観音丘陵と呼ばれる丘を超えて、
下り坂を進むと霞ヶ城公園へと続きます。
「二本松少年隊像」。
二本松少年隊の像がお出迎え。
先ほどの成田少年の像の他、
砲銃を構えた少年達と、
隊長木村銃太郎の像があります。
二本松少年隊は正式な名称ではなく、
一般的に木村指揮下の少年達の事を指し、
それ以外の少年兵達もそう呼ばれました。
先程の小沢少年も木村隊ではありませんが、
二本松少年隊とされています。
「二本松城(霞ヶ城)」。
梯郭式平山城でかなり大規模の城でした。
とはいえ藩兵の殆どが白河へ遠征しており、
堅顧な城も将兵が不足していました。
藩主丹羽長国は病を患いながらも、
藩士と共に戦うと宣言しましたが、
名門の血を絶やすことを惜しんだ重臣達が、
無理やり駕籠に押し込めて、
城から退去させています。
その後の藩軍の総指揮は、
家老丹羽一学が担いました。
「箕輪門」。
霞ヶ城のシンボルともいえる箕輪門。
新政府軍がこの門に迫ると、
突然箕輪門が開き、
大城代内藤四郎兵衛自らが打って出て、
壮絶な討死を遂げました。
近くに戦死之地碑があったらしいのですが、
気が付きませんでした。
訪問した日は11月上旬。
菊人形の開催時期でした。
二本松といえば菊人形でも有名なところ。
箕輪門をくぐって少し登ると、
菊人形会場が現れます。
せっかくなんで拝見することにします。
二本松では菊の愛好家が多いるようで、
菊の品評会も同時に行われていました。
「高村夫婦の菊人形」。
高村智恵子は二本松出身の洋画家。
夫の高村光太郎も彫刻家で詩人。
二本松はこの高村智恵子も推しています。
人形の顔が綾瀬はるかに似ている?
「るり池」。
城内は城というより寺院庭園の雰囲気。
城跡と忘れてしまいそうなほど、
見事な庭園です。
「二合田用水」。
雨も降っていないのに、
溝を流れる水が速いなぁと思ってたら、
城内の用水路だったものとの事。
安達太良山の中腹より運ばれているらしい。
これほど豊富な水があれば、
籠城も容易だったでしょう。
兵がいれば・・・。
本丸を目指して城山を登ります。
途中で少し開けた場所があり、
石碑が建てられていました。
「二本松藩士自尽の地」。
土蔵奉行役宅があった場所で、
家老丹羽一学、城代服部久左衛門、
小城代丹羽新十郎が自刃しました。
年賦取立役大島成渡が介錯役を果し、
火を放ってその遺体を焼きました。
「日影の井戸」。
千葉県[月影の井戸]、
神奈川県[星影の井戸]と共に、
[日本の三井]と呼ばれる井戸。
ニ合田用水があるので、
井戸はあまり意味ないような気もします。
「本丸跡」。
やっとたどり着いた本丸跡。
平成5年から2年かけて、
石垣の修築復元工事が行われたそうです。
本丸からの眺め。
市内が一望できますが、
眺めが良いということは、
迫りくる新政府軍の様子や、
戦況も窺えたという事。
相当の恐怖だったでしょう。
「天守台」。
天守台は作られてはいましたが、
天守は作られなヵったという。
当時より石垣だけがあったようです。
「丹羽和左衛門 安倍井又之丞 自尽の碑」。
城代の丹羽和左衛門と、
勘定奉行安倍井又之丞は、
天守台より戦況を確認した後、
共に自刃して果てました。
丹羽和左衛門は軍扇を膝の上に広げ、
割腹したのち内臓を軍扇の上につかみ出し、
前屈みになって絶命したとされます。
なんとも壮絶な死様ですね。
「二本松少年隊顕彰碑」。
本丸の西側にある[少年隊の丘]には、
二本松少年隊の顕彰碑が建っています。
ここは戊辰戦争直前まで、
砲術道場で学ぶ少年たちが、
稽古を行っていた場所とのこと。
「二本松少年隊 成田才次郎戦死の地」。
箕輪門の西側の駐車場付近にあります。
この成田少年は城中へ向かう途中、
攻め手の長州藩兵と遭遇。
長州藩兵の隊長白井小四郎は少年と油断し、
成田少年に突きを喰らわされました。
白井は自分の不覚であるからと、
少年を殺すなと言って絶命しますが、
部下は少年を既に返り討ちにしており、
成田少年もここで戦死しました。
なんとも無情な話です。
戦闘に参加した少年兵の半数以上が戦死、
または戦病死しています。
久保鉄次郎、豊三郎兄弟は、
負傷して称念寺に運ばれ、
瀕死でお互いが居るのを知らぬまま、
それぞれがそこで戦病死しました。
三浦行蔵少年は農民に助けられ、
その農民の看病の甲斐あって回復しますが、
仲間のほとんどが戦死した事を知り、
農民が目を離した隙に去ってしまい、
以後は行方不明という。
二本松少年隊は悲劇でありながら、
何処か美しいと感じてしまうのは、
不謹慎でしょうか?
少年隊はもちろんそれ以外の藩士達にも、
武士道を感じます。
ありきたりな表現しか思いつきませんが、
なにか潔さとかそういう意味の美しさが、
そこにあるような気がします。
もちろんこれは個人の感覚です。
【二本松藩】
藩庁:霞ヶ城
藩主家:児玉丹羽家
分類:10万石、外様大名(準国持)
■関連記事■
・「十二歳の戊辰戦争」林洋海
成田少年が表紙を飾っています。
・「二本松少年隊物語 霞の天地」東雲さくら×まきお
二本松戦争はこの漫画で理解可能。
・福島県二本松市 大隣寺
藩主菩提寺。少年隊の供養塔も。
二本松少年隊を 歌った 漢詩
書き下し文 では (霞城外オウダン山
東道 の〇〇我が 守るところ・・・)から始まる漢詩だったと思います。
詩吟で吟じてくれた某老翁がおりました。
全文を教わる前に亡くなってしまいましした。お判りになれば是非教えて欲しく、
コメント書かせて頂きました。
>矢ヶ崎千良 様。
コメントありがとうございます。
下記の漢詩と思われます。
二本松大壇口弔少年戦死墓
紫霞城外大壇山 東道要衝我所屯
望敵三軍旗色漲 顧身一剣赤心存
奮騰撃衆挫鉾鋭 酣戦横屍衂草原
来灑数行悲壮涙 少年墓下弔忠魂
二本松出身の学習院教授堀捨次郎の漢詩で、
霞ヶ城公園内の碑に刻まれています。