大隣寺は二本松藩主丹羽家の菩提寺。
織田四天王と謳われた丹羽長秀の死後、
家督を継いだ嫡子丹羽長重が、
所領の白河に大隣寺を建立。
三代藩主丹羽光重が二本松に転封されると、
この大隣寺も二本松に移転しました。
大隣寺の寺号は長秀の法名
[総光寺殿大隣宗徳大居士]に由来。
戦火を免れて藩主の謹慎所に当てられ、
更に二本松藩の仮藩庁にも使用されました。
そして二本松少年隊も供養されています。
「大隣寺」。
藩主の菩提寺だけあって立派なお寺です。
階段の先には立派な山門がありましたが、
廃藩後は寺院の維持管理が困難となり、
他の建物と共に売却され、
寺の運営資金に当てられたようです。
「二本松少年隊 副隊長二階堂衛守
隊士岡山篤次郎 戦死之地」。
階段の脇にひっそりと建てられています。
大壇口の戦いで隊長の木村銃太郎を失い、
副隊長二階堂衛守以下少年隊士達は、
ここで新政府軍と遭遇してしまいます。
二階堂は無数の銃弾を浴びて討死。
彼は藩主の信任厚く、誠実温厚ながら、
事に当たっては勇猛果敢であったとされ、
二本松戦争の混乱の中で、
幼年兵指図役(副隊長)を受け持ちます。
重傷を負った木村銃太郎の首を落とし、
少年達を連れて退却する途中でした。
岡山篤次郎は数えで13歳。
今の小学6年生位の歳ですね。
碑では戦死之地となっていますが、
岡山少年は銃撃を受けた後、
称念寺に設置された野戦病院に収容。
そこで戦病死しています。
銃撃した新政府軍も子供と気付いたようで、
岡山少年を野戦病院に運んだのでしょう。
野戦病院で瀕死状態の岡山少年は、
「銃はどこだ。弾をよこせ・・」と、
うわごとを呟き、
その健気な様子を見た土佐藩士広田弘道は、
返感状を岡山少年に贈りました。
※返感状とは敵の戦功を褒め称える書状。
岡山少年の服に、
[二本松藩士岡山篤次郎十三歳]
と書かれた布が縫い付けられていた為、
これにより少年が岡山篤次郎と判明。
岡山少年は母に戦死したときに為に、
名札の縫い付けを頼んでいました。
隊長の木村銃太郎の首級は、
二階堂と岡山少年が運んだとされており、
その首を持っていた為に、
銃撃から逃れられなかったのでしょうか?
「本堂」。
戦火を免れた本堂は当時のまま。
さすがに藩主菩提寺で立派な建物です。
文化8年(1811)に全面改修されてより、
当時のままの姿で現存しています。
「戦死群霊」碑。
本堂の左側にある二本松少年隊の慰霊碑。
少年達の霊を慰めています。
明治2年に建立。
「二本松少年隊士供養塔(右)」。
[戦死群霊]碑の左右には、
二本松少年隊の供養塔が並びます。
こちらは右手側。
「二本松少年隊士供養塔(左)」。
左手側。
「会津藩 仙台藩 戊辰役供養塔」。
少年隊供養塔の左側には、
会津藩や仙台藩戦死者の供養塔があります。
少年隊供養塔に手を合わせた後、
本堂裏手の丹羽家墓所に向かう。
「丹羽家墓所」。
丹羽藩主家の歴代藩主の墓が並びます。
二本松藩初代藩主丹羽光重から、
9代藩主丹羽長富までの墓所。
二本松戦争時の10代藩主丹羽長国の墓は、
東京の青山霊園にあります。
「九代丹羽長富の墓」。
安政5年に隠居。
慶応2年に死去した9代丹羽長富の墓。
歴代藩主より手前にありますが、
立地の問題なだけで、
離れているのには意味はないでしょう。
「内室陰墓 家族之墓」。
藩主正室は江戸屋敷に住んでいましたが、
側室は国許に住んでいました。
基本的に正室の子が世継ぎとなるのですが、
正室には子が授からず、
側室の子が世継ぎとなる事も。
幕府に正室の子として届ける為、
生母ながら側室は陰の存在となります。
側室は墓を建てることも許されず、
側室から生まれた藩主は、
本当の生母の菩提を弔うために、
密かに[陰墓]を建てたという。
本堂の右側には一般の古い墓地があり、
そこには二本松戦争ゆかりの墓があります。
「成田達寿の墓」。
二本松少年隊士。
軍事奉行成田弥格の長男で当時13歳。
米沢に落ち延びて生還した人物で、
郵便局長など勤め84歳まで生きました。
「丹羽和左衛門弘道墓」。
軍事奉行丹羽和左衛門の墓。
勘定奉行安部井又之丞と共に本丸で自刃。
広げた軍扇の上に内腑を引き出し、
前屈みに倒れる壮絶な死に様だったという。
「成田家之墓(成田才次郎の墓)」。
二本松少年隊士。
成田外記右衛門の次男で当時14歳。
長州藩隊長白井小四郎を刺殺した少年です。
墓は新しく親族代々の墓となっており、
成田才次郎の名は一番目に刻まれています。
「内藤隼人正弘墓」。
箕輪門で討死した大城代内藤四郎兵衛の子。
銃士隊副隊長として白河に出陣して戦死。
土方歳三の変名も[内藤隼人]ですが、
全くの偶然で無関係。
「二階堂衛守信近墓」。
少年隊の副隊長二階堂衛守の墓。
妻アサは戦争当時妊娠中で、
戦後に男子を出産したという。
「丹羽一学夫妻墓」。
二本松藩家老丹羽一学夫妻の墓。
「降るも亡び 降らざるも亦亡ぶ
亡は一のみ
寧ろ死を出して信を守るに若かず」
と、言って抗戦を主張。
二本松藩を抗戦へを導いた人物で、
丹羽新十郎、服部久左衛門と共に自刃。
剛毅果敢な忠義者であったということです。
少年隊士の墓もいくつかありましたが、
他の少年達の墓も別の寺にあるのでしょう。
いろいろと廻ってみたいところですが、
時間が無くなり今回はこれまで。
またいつの日か必ず、
来たい場所のひとつになりました。
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二本松藩丹羽家の居城。
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二本松藩は大垣藩藩と婚戚関係。