つづき。
①/②/③/④
大村益次郎の墓碑より奥へ進む。
「高知県招魂社」。
明治2年に土佐藩が建立したもので、
坂本龍馬、中岡慎太郎らを合祀。
建立当時は土佐藩招魂社。
「天誅組志士墓所」。
崖際に一列に並んだ天誅組殉難者のエリア。
那須信吾や池内蔵太などの他、
三総裁の一人松本奎堂の墓碑もあります。
そういえば別の場所に、
三総裁の藤本鉄石の墓碑がありました。
「鐵石藤本先生之墓(左)」、
「福浦元吉之墓(右)」。
場所は前後しますが、
長州勤王烈士墓域の南側上段。
福浦元吉は藤本の従者です。
双方共立派な墓石ですが、
親族が建てたものでしょうか?
福浦は藤本に心酔しており、
死ぬまで追従していましたので、
墓碑も並べられた事は本望だと思います。
天誅組志士墓所に戻ります。
「吉村寅太郎藤原重郷墓磇」。
吉村の墓碑は別格のように離されています。
庄屋の子ながら武市瑞山に影響され、
京都などで尊攘活動に奔走し、
大和行幸に合わせ五條で挙兵。
しかし八月十八日の政変で情勢が変化し、
天誅組は暴徒として鎮圧されてしまい、
吉村も重傷を負って逃亡しますが、
津藩兵によって討ち取られています。
主将の中山忠光の墓碑は無し。
いよいよ坂本龍馬、中岡慎太郎の墓へ。
「坂本龍馬紀直柔之墓(左)」、
「中岡慎太郎道正之墓(右)」。
龍馬と中岡は慶応3年11月15日。
近江屋で殺害されています。
2人(山田藤吉含め3人)を殺害したのは、
佐々木只三郎率いる京都見廻組。
現在も陰謀説が色々ありますが、
京都見廻組の犯行で間違いありません。
確かに殺害当時は新選組説や、
薩摩藩説、紀州藩説はありましたが、
その後の実行犯である今井信郎の自供や、
状況証拠から他説は否定され、
京都見廻組で何も疑う余地はないでしょう。
作家などの創作や金儲けの為に、
幕末最大の謎とされているに過ぎませんし、
坂本や中岡が職務で殺されたからといって、
彼らの偉業が色あせる事はありません。
襲撃を終えた京都見廻組が引き上げると、
坂本は中岡と言葉を交わした後に昏倒。
中岡は助けを求めて物干から屋根を伝い、
隣の屋根で力尽きます。
陸援隊らが駆け付けた時には坂本は死亡。
中岡と山田は手当てをされますが、
山田は翌日、中岡は翌々日に死亡。
3人の遺体は18日に霊山に運ばれ、
ここに埋葬されました。
墓所傍らにある坂本と中岡の銅像。
円山公園にある銅像のミニチュア版です。
「贈正四位坂本龍馬君忠魂碑」。
日露戦争開戦直前に皇后の夢に龍馬が現れ、
日本勝利は確実だと告げたとされています。
皇后は偶然寺田屋とせの養子寺田伊助が、
逓信大臣大浦兼武の許を訪れたと知り、
伊助に手元金を下賜したという。
その金で墓前に石碑を建立しています。
坂本、中岡の墓所の裏手には、
池田屋事件殉難者のエリア。
宮部鼎蔵や古高俊太郎等の墓碑があります。
つづく。
①/②/③/④
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246万6532柱の祭神を祀る招魂社。