坂本龍馬と下関

このブログは幕末を題材にしており、
しかも下関を本拠地とする割には、
坂本龍馬にあんまり触れずでした。
なんであまり触れなかったかというと、
龍馬が嫌いとかいうわけではなく、
※寧ろ好きな方です。
下関の至る所にある例のアレの影響からか、
なんとなく避けてた感じでした。


例のアレ↑

とはいえ下関と龍馬の関わりが深いのは事実で、
どうしても避けては通れない訳なので、
下関と坂本龍馬の関係について触れてみます。

坂本龍馬は下関に結構来ていました。
どんだけ来てるかというと、
少なくとも15回以上は来ています。
江戸京都から長崎に行く場合、
どうしても下関を通るわけですから、
立ち寄るのは普通といえば普通です。
九州の諸藩の志士なんかは、
ほぼ下関に滞在してるといえますね。
でも龍馬はその短い晩年の最後の拠点を、
この下関に置いています。

下関と龍馬の関係において重要なのは、
長府藩本陣伊藤家のようなスポンサーが、
そこにあったから。
長州藩というより支藩の長府藩との関係が深く、
三吉慎蔵印藤昇らと親しかったという。
彼ら長府藩士や本陣伊藤家を介して、
高杉晋作ら本藩とのパイプを構築しました。


三吉慎蔵と印藤昇

その後は幕長戦争小倉口の戦いに参加。
この幕長戦争には龍馬だけでなく、
沢山の他藩脱藩志士達が参加しました。
戦後の慶応3年1月正式に下関に居を構え、
本陣伊藤家の一室を自然堂と称し、
そこでお龍と2人で暮らしました。
龍馬は長崎京都で活動しますが、
その度に下関にちゃんと帰ってきています。



本陣伊藤家跡

不在中も安心してお龍を任せられる長府藩や、
本陣伊藤家伊があり、
京都と長崎の間に位置する下関は、
龍馬にとって都合の良い土地だったのでしょう。
龍馬とお龍はその短い新婚生活を下関で送り、
夫婦で伊藤家の歌会に参加したり、
巌流島に渡って花火をしたりと、
新婚生活をエンジョイしていたようです。

龍馬が京都で暗殺された後、
下関で待つお龍は三吉慎蔵に、
その死を知らされたそうです。

■関連記事■
例のアレの件・・・・
 これはダメでしょ?
下関市彦島 巌流島
 巌流島に渡って花火をしたようです。
下関市本町 空月庵跡 伊藤助太夫(久三)墓所
 龍馬のスポンサー伊藤助太夫の墓所。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です