東京都千代田区 靖国神社

田安門を出て靖国神社へ。

靖国神社はかつて戦場へ赴いた兵士達や、
戦死者の遺族の心のよりどころであり、
また左翼の攻撃対象でもあるこの神社には、
246万6532柱祭神を祀っています。

国事に殉じた人々を慰霊する趣旨の神社で、
それ自体はとても素晴らしい事なのですが、
その定義が非常に難しく、
選に漏れた故人の関係者からの不満や、
選ばれた故人に対する評価により、
非難が出てくるのは致し方ない事でしょう。

批判を承知であえて例えるならば、
スポーツ等の代表の人選を非難するのと、
変わりはないんじゃないのでしょうか?
何故彼が選ばれないんだ?
何故あんな奴が選ばれたんだ?」って。

選抜される代表にも経緯があるわけで、
その競技の発展に貢献してたって、
その後に不祥事を起こしたり、
既に落ち目だったりしたら選ばれない。
たまたま調子が良くて選ばれた例もある。
またふさわしくないとわかっても、
既に変更出来ない状況もある。
これは運もある事でしょう。

WBCで贔屓の選手が出てなくたって、
その選手の後輩が出てたり、
贔屓チームの別選手も出てるんだし、
なにより日本代表チームなんだから、
その選手が出てないのは残念なんだけど、
それはそれで精一杯応援しましょうよ。
贔屓選手は別で応援すればいい。

それと同様で西郷隆盛がいなくたって、
それにはそれなりの経緯があるわけで、
それはそれで仕方がないじゃない。
西郷と仲が良かった人物も、
薩摩の人間も合祀されてるんだから、
つまらぬ批判はしないで、
ここでは厳かに手を合わせ、
西郷に対しては、南洲神社等に行って、
手を合わせればいいんだしね。

田安門の坂を下って左手の歩道橋を渡れば、
靖国神社の参道なのですが、
渡る前の堀に面した九段坂公園という、
小さな公園に2体の銅像があります。

子爵品川弥二郎卿像」。
品川弥二郎松下村塾の出身で、
他の志士らと共に尊攘運動に奔走しました。
下関戦争の講和に反対し、
高杉晋作を斬ると息巻いた逸話もあります。
幕末期は主に外交や周旋を担当しており、
桂小五郎らと薩長同盟の締結に奔走。
軍歌トコトンヤレ節を作詞したともされ、
奥羽鎮撫総督参謀として戊辰戦争にも従軍。
維新後は英国留学を経て内務少輔
農商務大輔等を歴任。
第一次松方内閣内務大臣に就任しますが、
強力な選挙干渉を行なった事で辞職。
その後は西郷従道と政治団体を設立したり、
共同組合などの設立に貢献しました。
ですが彼の一番の功績といえは、
維新に倒れた志士達の顕彰事業でしょう。
靖国神社にも通じているともいえます。


大山巌像」。
大山巌は西郷隆盛の従弟で、
薩摩藩の尊攘過激派に属し、
寺田屋事件にも遭遇しています。
薩英戦争の後は砲術を学び、
戊辰戦争では砲隊を率いた他、
四斤山砲の改良も行っており、
その設計した大砲は弥助砲と称されました。
※当時の名は大山弥助。
維新後は陸軍で士族反乱を鎮圧した他、
西南戦争にも参加しています。
日清戦争では第二軍司令官として従軍。
日露戦争では満州軍総司令官を務め、
日本の勝利に大きく貢献しました。
元会津藩家老山川浩の妹捨松と結婚し、
おしどり夫婦としても知られています。

歩道橋を渡っていよいよ靖国神社へ。

第一鳥居(大鳥居)」。
耐候性鋼の鳥居で表面は錆の色。
日本一の大鳥居として大正10年に建立。
現在のものは2代目で、
ここから約500m程の参道の先が社殿です。


大村益次郎像」。
日本初の西洋式銅像とも云われ、
東京三大銅像のひとつでもあります。
大村益次郎(村田蔵六)は肖像画のように、
かなり特徴的な顔立ちだったようで、
火吹き達磨と渾名されてたりしていますが、
その特徴がよく捉えられた銅像ですね。
鋳銭司の村医の子として生まれましたが、
学問への追求心から遊学して学識を得ます。
更に大坂に出て緒方洪庵適塾に入門し、
適塾門下の中で塾頭に選ばれました。
後に惜しまれながら帰郷し、
父の跡を継いで村医となっています。
後に宇和島二宮敬作を訪ねたのが縁で、
宇和島藩に推挙されて仕官しました。
その際に小汚い身なりで現れた為、
侮られて低禄高で迎えられますが、
それが後に宇和島藩の上層部に伝わり、
急いで百石取上士格に改められたという。
大村の飾らない性格が伺える他、
[三国志]の龐統を思い起こさせますね。
宇和島藩で兵学や蘭学の講義と翻訳を行い、
領内樺崎の砲台建築に携わった他、
前原巧山と共に洋式軍艦の雛形を作成。
またシーボルトの娘楠本イネを紹介され、
彼女に蘭学を教えています。

藩主伊達宗城の参勤に従い江戸に出て、
宇和島藩籍のまま幕府に出仕し、
洋書の翻訳、講義等を行いました。
これらの活動が長州藩の知る所となり、
桂小五郎の推挙で長州藩に仕官。
禄高年米25俵と低い待遇にも係らず、
故郷に仕官することを望んでいます。
長州藩では主に軍制改革に携わり、
また外人応接掛にも任命されました。

藩の内訌が終わり倒幕に藩論がまとまると、
諸隊や正規軍の軍制改革に着手し、
幕長戦争では石州口の実戦指揮を担当。
幕府軍をことごとく撃破しました。
大政奉還王政復古と時局が流れ、
大坂での陸海軍の両観閲式を指揮。
上野戦争では僅か一日で彰義隊を鎮圧し、
その名を広く世間に知らしめています。

戊辰戦争終了後は国軍の軍制改革に着手。
諸藩軍制の廃止廃刀令の実施
徴兵令の制定鎮台の設置
兵学校設置など職業軍人化を推進し、
政府直属軍隊の創設を模索して、
反対する大久保利通らと対立しました。

兵部大輔に就任した後は、
軍の中枢を大阪に移して反対派を退け、
着々と改革を断行して既成事実を構築し、
国軍の基礎を造りあげましたが、
明治2年8月4日、京都で刺客に襲われ、
左大腿部切断の重傷を負い、
明治2年11月5日に死亡しました。

大村の献策で創建された東京招魂社が、
靖国神社の前身です。

参道を進む。
大村像の建つ場所は外苑と呼ばれる参道。
奥に見える鳥居は内苑へと続く第二鳥居
青銅製の鳥居としては日本一とのこと。


第二鳥居を抜けて内苑へ。
その先の「神門」は高さ6m檜造。
直径1.5mの菊花紋が取り付けられており、
閉門時間になると閉じられるようです。


中門鳥居」。
以前は台湾産の檜が使われた鳥居でしたが、
現在は埼玉県産の檜製。


靖国神社 拝殿」。
比較的立派な拝殿ですが、
権威主義などはは感じられない厳かな建物。
なんら特別な感じはなく、
大きな神社の拝殿と同じくらい。
国事に殉じた幾多の人々達に対して、
おごそかに拝礼しましょう。


遊就館」。
幕末から大東亜戦争に至る戦没者の遺品や、
軍事関係の資料を展示している施設で、
日本における最初で最古の軍事博物館です。
日清・日露、支那、大東亜等の所縁の品や、
鹵獲兵器の展示も行われています。
入ってみたかったのですが、
時間の関係で断念。


青銅八十封度陸用加農砲」。
遊就館に置かれている青銅砲で、
安政元年に湯島馬場大筒鋳立場で鋳造。
品川台場に据付けられていました。


青銅百五十封度陸用加農砲」。
嘉永2年に薩摩藩で鋳造されたもので、
鹿児島の天保山砲台に設置されたもの。
薩英戦争で使用したとされており、
明治初年に大阪砲兵工廠施條された模様。


鋼製三十封度船用加農砲」。
露艦ディアナ号の備砲。
幕府はディアナ号の乗組員帰国の為に、
洋式帆船二隻を用意しました。
ロシアは幕府のこの厚誼に感謝して、
五十二門の大砲が贈られており、
これはそのうちの一門で同じものが、
下田にも残っています。

これらは遊就館に収集されていた為に、
金属類回収令を免れた模様。
とても貴重なものです。

靖国神社の前身は東京招魂社で、
全国に広がっていた招魂社設立の動き。
元々高杉晋作の発案の合同招魂場で、
身寄りの無い者も多かった隊士達の、
永代的な供養(招魂)を目的としたもの。
各地各隊の招魂社も独自政策で創建され、
祭神も各地各隊ゆかりの人々を、
それぞれ独自で招魂したもので、
各神社の統一した祭神などは存在せず、
それぞれが独自の判断で合祀したものです。
乃木希典東郷平八郎児玉源太郎など、
英雄視された人物も合祀されていません。

今回初めて行ってみましたが、
現在の靖国神社は比較的大きな神社ですが、
普通の神社だという事がわかりました。
伊勢神宮内宮天照大御神を祀り、
伊勢神宮外宮豊受大御神を祀る。
石清水八幡宮八幡三所大神を祀り、
大宰府天満宮菅原道真を祀る。
豊國神社豊臣秀吉を祀り、
乃木神社乃木希典を祀る。
当たり前ですがそういう事なのでしょう。

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 間違った情報が溢れていますので・・。

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