①/②/③/④
念願の霊山護國神社へ行ってきました。
文久2年。
清末藩の国学者船越清蔵が暗殺されますが、
※記事はこちら。
これを知った華院家士吉田玄蕃は、
霊山神道葬祭場霊明社に船越の墓碑を建て、
有志を募って神葬祭を行います。
これをきっかけに勤皇志士が殉難した際、
霊山で神道葬が行われる事が通例となり、
安政の大獄の殉難者の祭祀も営まれました。
その後、吉田稔麿等(池田屋事件)、
坂本龍馬等(近江屋事件)が埋葬され、
慶応4年には明治天皇の詔が発せられ、
霊明社の境内地及び墓地が上知され、
霊山官祭招魂社が創設されます。
以後、境内を拡張に伴い新たに社殿が造営。
昭和14年の内務大臣布告によって、
京都霊山護国神社と改称されました。
「京都霊山護國神社」。
京都に外国人観光客が増えていますが、
ここはそこまで多くは無い様子。
京都でこれほど少ないのは不思議ですが、
あまり紹介されていないのでしょうか?
攘夷は排他運動とも云えますので、
外国人には説明し辛いのでしょうか?
「維新の道」。
参道は維新の道を名付けられています。
明治百年に発足した霊山顕彰会が整備し、
参道は[維新の道]と名付けられました。
石碑の揮毫は松下幸之助によるもの。
維新の道(・というより坂)を上り、
左手より京都霊山護國神社へ。
「拝殿」。
現在の拝殿は昭和天皇御即位大礼の、
大嘗宮斎庫が下賜されたもの。
思ったほど境内は広くありません。
社務所の拝観口より[霊山墓地]へ。
拝観料は300円。
墓地への参道にある墓標の地図。
これは便利ですね。
参道を進むと大きな碑が現れます。
「故内閣顧問贈従一位木戸公神道碑」。
木戸孝允は明治10年に死去し、
霊山墓地に葬られています。
神道碑建立の勅命が下っていますが、
制作には紆余曲折があったようで、
建立は大正2年になってから。
木戸の神道碑より道は折り返し、
さらに上へ進む。
「勤皇力士錣形岩衛門之碑」。
京都相撲頭取の錣形岩右衛門の墓碑。
禁裏守護補佐を務めた力士隊隊長とのこと。
墓碑は子孫が建立したもので、
京都の力士隊を調べてみると、
文久3年に結成した力士らの隊で、
隊長(総代)は力士の旭形亀太郎。
禁門の変で内裏に参じて護衛を担当し、
孝明天皇の激賞を授かってます。
錣形は後ろ盾のような存在だったようで、
正確には隊長ではありませんでした。
「淡海槐堂先生旌褒碑」。
醍醐家の家臣板倉筑前介の碑。
尊攘運動に協力して尊攘志士ら支え、
天誅組に援助したことから捕らえられます。
維新後は淡海槐堂と称して隠遁し、
余生は詩画の制作に没頭。
没後に明治天皇から祭祀料が下賜され、
親戚知人らが碑を建立して顕彰したもの。
・・と、一つ一つ説明していては、
何年も掛かることでしょう。
※近辺に住んでいるならアリですが。
上り道を登った先には、
梅田雲浜の碑がありました。
「雲濵君碑」。
梅田雲浜は幕府の政治を批判し、
安政の大獄で捕らえられて獄死しています。
小浜藩の出身でしたが、
藩主の逆鱗に触れて浪人となり、
赤貧に喘ぎながら尊攘活動をしていますが、
尊攘活動の傍ら交易仲介で財を成し、
相当に裕福であったという。
つづく。
①/②/③/④
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山口市にある木戸孝允を祀る神社。
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小浜市にある梅田雲浜関連史跡。
・東京都千代田区 靖国神社
246万6534柱の祭神を祀る招魂社。