下関市菊川町 船越清蔵関連史跡

菊川町岡枝に船越清蔵関連の史跡を訪ねました。

船越清蔵は清末藩士船越孟正の長男として生まれ、
藩校育英館に学び、18歳頃に豊後に遊学して、
儒学者帆足万里広瀬淡窓に師事しました。
5年間の遊学を終えて帰ってきますが、
何か思うことがあったのか家督を放棄して在野に下ります。

諸国を旅して長崎などで蘭学・医学を学んで自活の糧を得た後、
江戸、蝦夷、大津、京都などで尊攘活動を行い、
安政の大獄が始まると、密かに長州へ戻ります。
吉田松陰も清蔵に私淑していたらしく、
松陰門下生も清蔵の許を訪れました。

長府藩の儒臣として迎えられた清蔵は、
長府藩のみならず明倫館やその他支藩の藩校でも講義し、
尊王攘夷を訴えました。

文久2年の長州藩主毛利敬親の御前で講義した際、
毛利家の始祖である大江広元を批判した為、
この事に激怒した長州藩士に毒を盛られ、
その帰路の絵堂で倒れて死亡しました。

清蔵が論じたのは、
大江広元を始祖とする毛利家が勤皇を掲げるならば、
 朝臣大江広元が源頼朝の側近となったという事実を、
 天下にどう説明するかを考えねばならぬ
」という、
誠にもっともな意見でした。


船越清蔵旧宅跡」。
場所は菊川町大字上岡枝1151
清蔵の生家。つまり清末藩士船越家の家があった場所ですね。

清蔵が家督を放棄した後、
末妹とりが清末藩医南部宗哲の次男太平次を婿に貰い、
船越家を継ぎました。

旧宅跡から真西の小丸山中腹に、清蔵の墓があります。
田園地帯の細道を通り、山道(一応車は通れる)を登ります。


少し登ると小さな墓石がたくさん建っていました。
昔からの墓地のようですね。

さらに登ると、船越家の墓所があります。

船越清蔵藤原守愚墓」「贈従四位船越清蔵」。
船越清蔵の墓は並んで二つありました。
自然石の方は埋葬時に建てられたもので、
奥津城の方は従四位を贈った際に建てられたものでしょう。

絵堂で死亡した清蔵の遺体には、
毒殺の形跡がはっきりあったらしい。
妹婿の笹尾万次郎が駆け付けて遺体を持ち帰り、
船越家の墓所に埋葬したそうです。

さて、最後に向かうは岡枝小学校
墓所の真南にあり、ここに清蔵の顕彰碑が建てられています。

船越清蔵顕彰碑」。
岡枝小学校にゆかりのある官僚と校長の顕彰碑と並んいます。
それぞれに説明板が建てられていて、
わかりやすい説明がされていました。

船越清蔵は、京都霊山護国神社にとっても重要な人物です。
清蔵の死から3ヶ月後、在京の長州藩士等50人が集まり、
霊山で神道葬を行いました。
これが数々の幕末志士が眠る霊山の始まりだったようです。

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