錦帯橋は岩国の錦川に架かる有名な橋で、
世界的にも珍しい木造アーチ構造の橋。
吉川家が岩国の領主となってから、
錦川には何度も橋が架けられましたが、
洪水で何度も橋は流れていた為、
3代領主吉川広嘉がこれを憂い、
洪水に耐えられる橋の建設を計画。
明の帰化僧独立性易から杭州西湖の橋が、
橋脚を石垣にしているという情報から、
家臣の児玉九郎右衛門に設計させ、
最初のアーチ橋を完成させます。
・・が、翌年の洪水で流されてしまい、
更に石垣を強固に改良して再建したところ、
洪水が何度来ても流されない橋が完成。
以来250年以上一度も流される事なく、
定期的な修復だけで保っていました。
しかし昭和25年のキジア台風により崩落。
戦時中で修復が疎かになっていた事と、
米軍基地建設で錦川の砂利を採取した事が、
その原因とされています。
翌年より復旧が行われて昭和28年に再建。
その後は平成13年の架替工事、
平成17年の台風14号の破損修復を経て、
現在に至っています。
「錦帯橋」。
河川内に4つの橋脚を持つ5連の木造橋。
中央3連がアーチ橋となっており、
両端は桁橋構造となっています。
木材は赤松、檜、欅、栗、樫、檜葉で、
それぞれの特性で使い分けが行われ、
全て国産の材料であるとのこと。
現在も有名な観光スポットですが、
江戸時代も全国的に知られており、
岩国城下は西国街道から外れていますが、
錦帯橋を一目見たいが為に、
わざわざ回り道していたようです。
その別れ道にあるのが思案橋で、
西国街道を進む旅人が、
そのまま先を急ぐか、
錦帯橋を拝んで行くか、
御庄川に架かる橋の前で思案した事から、
そう呼ばれる事になったという。
一般の旅人だけではなく、
参勤交代で西国街道を進む諸大名らも、
この錦帯橋を渡る為に寄り道し、
吉川家家中は困っていたようです。
熊本藩細川家、薩摩藩島津家の行列も、
この錦帯橋を渡っていたようですが、
中には槍を立てたままの行列もあり、
※他藩の城下では礼儀として、
槍を倒して通りました。
これに憤慨した吉川家家臣達が、
槍を倒さなければ城下を通れないように、
橋詰に邪魔になる松を植えたという。
大名ではありませんが、
江戸へ向かう篤姫の行列も、
この錦帯橋を通行しています。
是非とも有名な錦帯橋を見物したいと、
篤姫は使者を出して廻り道しますが、
岩国領では橋の破損を理由に断ります。
篤姫は諦めずに再び使者を派遣し、
近年主人(島津斉彬)が通行しているので、
先例に倣って許可して欲しいと尋ねました。
これについて役人達が相談している間に、
篤姫一行が突然橋に押しかけ、
橋守が止めるのも気がず強引に通行。
この報に役人は呆れたようですが、
錦帯橋はそれ程の評判の橋だったようです。
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