僕の住む下関市からは、岩国市は遠くに感じられます。
県内と思われるでしょうが、下関―岩国は高速で2時間強。
ちょっとした旅行になってしまうわけですが、
同じ山口県内というのがあるので、旅行とも言いにくい。
40km先の広島ならば旅行って感じなんですけどね。
たぶん岩国市の人もそんな感じなんじゃないでしょうか?
そんな近くて遠い岩国市に今回行ってきました。
「錦帯橋」。
岩国を流れる錦川に架かる世界的に珍しい木造アーチ橋。
日本三名橋に数えられ、名勝に指定された有名な橋です。
吉川家が岩国の領主となってから、
錦川には何度も橋が架けられましたが、
洪水の度に橋が流されてしまっています。
3代領主吉川広嘉は、洪水に耐えられる橋の建設を計画。
明の帰化僧独立性易から、杭州の西湖に架かる橋が、
橋脚を石垣で強固して強度を得ているとの情報から、
児玉九郎右衛門に設計させたアーチ橋を完成させます。
・・が、翌年の洪水で無残にも流されてしまい、
橋脚の石垣をより強固に改良して再建したところ、
洪水が何度来ても流されない橋が完成したのです。
以来250年以上一度も流される事なく、
定期的な修復だけで保っていたのですが、
昭和25年のキジア台風により崩落。
戦時中から修復がおろそかになっていた事と、
岩国米軍基地建設の為に、
錦帯橋付近の砂利を採取した事が原因という。
翌年より復旧が行われ、昭和28年に再建。
その後、平成13年の架替工事、
平成17年の台風14号による破損の修復を経て、
現在に至ります。
橋を渡るとアップダウンが激しく少々疲れます。
しかも湿度が高く子供を抱っこしていましたので、
渡るだけでバテバテでした・・。
「巖流ゆかりの柳」と「槍倒し松」。
橋を渡った左河縁にある2本の木。
「巖流ゆかりの柳」は佐々木小次郎ゆかりの柳。
佐々木小次郎は岩国の出身で、錦川河畔で柳の枝を切り、
水辺の燕を斬り「秘剣燕返し」を編み出したという。
佐々木小次郎は謎の多い人物で、不明な事が多く、
この話も吉川英治の小説によるところらしいです。
また「槍倒し松」というのは、
槍を立てて進むのに邪魔になる松の事。
大名行列の先頭には「槍持ち」がおり、
街道では槍を垂直に立てて進むのですが、
他藩の城下では礼儀として槍を倒して通ります。
しかし大藩の大名行列の中には、
槍を立てたまま城下を通過する藩もあり、
これに憤慨した岩国の武士が、
槍を倒さなければ城下を通れないように、
わざと邪魔になる松を植えたという事。
この松の位置では、邪魔にはならないだろうし、
大藩だろうがそんな無礼は許されない気もします。
色々つっこみどころのある木ですねぇ。
「吉川広嘉公像」。
岩国領3代領主吉川広嘉の銅像。
錦帯橋創健の偉業を称えて建てられました。
「錦帯橋碑」。
吉川広嘉公像のななめ後ろにありますが、
だれも見向きもしません。
「吉川經家弔魂碑」。
羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、
鳥取城を守備していた吉川経家の弔魂碑。
羽柴秀吉は鳥取城を包囲して兵糧攻めを行い、
兵糧は尽きて城内は飢えで餓死者が続出。
経家は城兵の助命を条件として降伏し、
城主の経家は切腹することとなりますが、
秀吉は経家の奮戦を称えて助命しようとします。
しかし経家は自害の意志を変えなかった為、
秀吉は仕方なく切腹を許可しました。
この碑は明治期の吉川家当主吉川元光が建てたもの。
「佐々木小次郎像」。
吉川英治の小説「宮本武蔵」の中で、
佐々木小次郎は岩国の出となっています。
実際はよくわかっていない謎の人物で、
岩国出身というのは吉川英治の創作のようです。
ちなみに当の吉川英治は小田原の出身で、
岩国吉川家とは関係ありません。
苗字も「きっかわ」ではなく「よしかわ」。
「昌名館付属屋及び門」。
昌名館は7代領主吉川経倫の隠居所で、
廃藩置県後に岩国県庁が置かれました。
現在は吉川資料館となっています。
「錦雲閣」。
明治18年に岩国城跡が公園として開放された際、
旧藩時代の櫓に似せて造られた絵馬堂です。
「吉香神社」。
歴代岩国領主を祀る神社。
享保13年に白山神社内に建てられ、
明治18年に現在地に移築されました。
「致遠有坂先生之碑」。
岩国の砲術家有坂致遠の顕彰碑。
有坂家は代々岩国の砲術家の家系で致遠は七代目。
玖珂村の石田三左衛門の子として生まれ、
幼少より中島流砲術を学び、有坂家の養子となります。
有坂流、石田流、荻野流など、17流派の砲術を修め、
さらに安盛流、合武三島流、自得流を修め、
長崎に赴き高島秋帆について西洋砲術を学び、
砲術24流派の奥義を極めます。
天保12年、高島秋帆による江戸での銃隊運用演習では、
砲銃打方や西洋流銃陣を幕臣や諸大名に披露しました。
その後、岩国に帰って西洋砲術を研究し、
近隣諸国より門人を多く抱えます。
天保14年には、吉川家の命を請けて大砲を鋳造し、
近隣諸国からも依頼を受けるようになり、
中国・四国における西洋砲術の最高指導者となりました。
安政2年、死去。
致遠の子有坂長良は「日新隊」砲術師範。
鳥羽伏見の戦いに参加し、
徳山藩の山崎隊と共に大阪城一番乗りの功名を得ています。
「吉香公園」。
上記に紹介した場所はすべて吉香公園の敷地内。
岩国城の「土居」と呼ばれる場所でした。
その中央には噴水のある広場があり、
市民の憩いの場となっています。
ロープウェイを使って山頂へ。
「岩国城天守」。
岩国城は平時の領主居城である「土居」と、
横山山頂の「横山城」とで構成されていましたが、
一国一城令により山頂の「横山城」は破却。
これは復興天守で、昭和37年に建てられたもの。
周防国にはこの岩国城しかないはずですが、
長府藩が櫛崎城を破却したことに合わせたようです。
天守からは岩国城下が一望できます。
城下の区割りは当時とさほど変わらないという。
錦帯橋も見えますね。
天守内部は刀剣の展示が豊富で、
刀好きにはたまらないでしょう。
天守最上階での我が子達。
みよちゃん&ゆきちゃんです。
「岩国城跡旧天守台」。
本来の天守のあった天守台跡。
天守復興の際、ここだと錦帯橋から見えないので、
現在の位置に建てられたようです。
岩国領(藩)は、毛利元就の次男吉川元春を祖とし、
元春次男吉川広家が初代領主として岩国を治めます。
関ヶ原の戦いで、徳川家康に内通した広家は、
毛利家本領安堵を条件に毛利勢の動きを封じ、
戦闘に参加させませんでした。
しかし戦後その条件は反故にされ、
毛利宗家は取りつぶしに決定。
長門・周防2国が広家に与えられます。
広家はこれに驚いて家康に直訴。
家康は広家の願いを聞き、広家に与えられる領地は、
毛利家に与えられて長州藩が立藩。
広家は毛利家より岩国3万石を与えられ、
岩国の領主となります。
しかし毛利家の大減封は、広家のせいであるという声は、
長州藩家中から聞こえ、遺恨を残す事になります。
これには幕府からは優遇されていたという事実もあり、
実際に毛利家からの独立も図られた事もあり、
関係の修復は幕末まで持ち越す事となります。
【岩国藩】
藩庁:岩国城
藩主家:吉川家
分類:3万石、外様大名(長州藩支藩)
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