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吉川家墓所は吉香公園の西側にあります。
墓所は吉川家菩提寺洞泉寺の境内ですが、
洞泉寺と墓所の間に永興寺という寺があり、
そこの境内と勘違いしてしまいそうです。
「洞泉寺」。
室町時代中期の武将吉川経信が、
安芸国新庄大朝に創建した洞仙寺を、
吉川家が岩国領主となった際に同地に移転。
寺名を洞泉寺に改めました。
「吉川家墓所」。
吉川家代々の墓所。
初代吉川広家から11代吉川経幹まで、
6代吉川経永を除く当主及びその妻など、
一族の墓碑51基が建てられています。
※6代経永、12代吉川経建の墓は、
実相院の墓域にあります
墓所内部はまるで城壁のようになっており、
毛利宗家や一門の墓所とは赴きが違い、
毛利家と疎遠であった事が伺えます。
迷路のような墓所の至る所に墓石があり、
それぞれに説明板が設けられています。
幕末の吉川経幹の墓を探すも見当たらない。
墓所の地図があったので確認してみると、
初代と経幹の墓は横山を登った場所との事。
こちらの階段から登ります。
小雨でできれば登りたくはないのですが、
初代の墓があるなら仕方ないですね。
「全光院殿前拾随補四品
中岩如兼大居士覚霊」。
初代領主吉川広家の墓。
小早川隆景と共に毛利両川と呼ばれ、
毛利家の基礎を作った吉川元春の次男で、
兄吉川元長の死後に家督を継ぎ、
豊臣秀吉から高く評価され、
文禄慶長の役に出陣して功を立てています。
長府藩初代藩主毛利秀元との確執や、
関ヶ原での東軍への内通で、
家中での発言権が弱まりますが、
岩国では領主として基礎を作りました。
2代以降は山麗。
「浄性院殿前倉部鉄堂宗閑大居士墓(右)」、
「高玄院殿超譽珠英美人墓(中)」、
「玄眞院殿前城門
郎快巖如心大居士覚霊(左)」。
2代領主吉川広正と正室竹姫、
及び3代領主吉川広嘉の墓。
2代広正は初代広家の長男に生まれ、
広家の隠居で家督を相続しますが、
幼少の為に藩政は広家が担い、
広家の死後に親政を行いました。
新田開発や紙の専売制等、
領内の経済の基礎造りを行い、
宗家藩主の後見も行っています。
3代広嘉は2代広正の長男として生まれ、
父の隠居により家督を相続。
病弱であった為に京都で療養し、
多くの諸学を身に着けたとされ、
錦川に錦帯橋を架橋しています。
16年の治世の後に死去。
広正の正室竹姫は毛利輝元の娘で、
広嘉の生母です。
「普恩院殿前少府卿
徳峯祖天大居士墓(左)」、
「涼雲院玉顔元鮮大居士墓(右)」。
4代領主吉川広紀と5代領主吉川広達の墓。
4代広紀は3代広嘉の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
領内経営が順調だったようで、
領政最良の時代と後に評価されています。
5代広達は4代広紀の長男として生まれ、
父の死去に伴い僅か2歳で家督を相続。
領政は家臣らによって担われましたが、
広達は21歳で死去してしまいました。
つづく。
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