山口県と広島県を隔てる小瀬川。
長州藩(岩国領)と芸州藩の藩境でした。
幕長戦争の芸州口の戦い(芸州戦争)の初戦。
先鋒の彦根藩と与板藩、高田藩は、
顕徳寺に本陣を置いていますが、
そのうち彦根藩兵500名は大瀧神社に進み、
一部が小瀬川の大和橋付近に布陣します。
慶応2年6月13日夜。
彦根藩兵は大砲3発を長州藩領に発射。
しかし長州側からの反応はありません。
長州勢は吉川領の戢翼団を主力とし、
和木に布陣していましたが、
戢翼団は彦根藩兵の牽制攻撃にも反応せず、
竹藪に身を潜めて夜明けを待っていました。
また一門筆頭家老宍戸備前の別動隊は、
小原に布陣し一部を大竹側に渡らせます。
夜が明けると彦根勢は竹原七郎平を使者とし、
封書を持たせて小瀬川を渡らせますが、
竹原が川の中央に差し掛かった時、
長州勢からの銃撃が始まり、
彼らは狙撃されてしまいました。
これを機に芸州戦争が開始されます。
「四境之役 封境之地」碑。
県道135号線(北中山岩国線)にある碑。
彦根勢は渡河作戦を開始しますが、
竹藪からの一斉射撃を受けて、
小瀬川は血で赤く染まったという。
「竹原七郎平徒渉地点」碑。
封境之地碑の向かいにある石碑。
竹原七郎平は赤備えに陣羽織で騎乗し、
2人の従者を引き連れて渡河したとされ、
長州勢の銃撃により竹原と従者1人が斃れ、
もう1人の従者は引き返して難を逃れました。
戢翼団隊長品川清兵衛は竹原の首を持ち、
陣羽織に包んで岩国城下に送ったとされます。
彦根藩の使者は竹原の他に、
曾根佐十郎がいたという記録もあります。
彦根藩側の記録では曾根は70石取りの藩士。
従者と間違うような装束ではなかったのでは?
※竹原は120石。
別の記録では竹原は木札を持っていましたが、
同じく射殺された1人は木札は持っておらず、
竹原と同じような装束をしていたとされ、
さらにもう1人も射殺されたが、
遺体は海に流されていったという。
彼らの墓は安禅寺の墓地にあります。
「安禅寺」。
安善寺は戢翼団の本陣が置かれた寺。
戢翼団隊長品川清兵衛は、
停戦後に竹原と他2人の墓を建立しています。
「彦根戦死士之墓」。
墓には竹原七郎平と竹原と同様の装束の1人、
及び海に流れた1人がいたと刻まれています。
「橘仙墓」。
西郷隆盛の座禅の師福昌寺住職無三和尚の師、
橘仙和尚の墓があります。
※西郷の師の師。
明治7年に安禅寺で寄宿中死去していますが、
弘化2年から15年間洞泉寺の住職をしており、
その後に加賀の瑞竜寺の住職となったという。
安禅寺を出て県道135号線を東に進み、
さくら遊園地という公園へ。
「さくら遊園地」。
遊園地といって普通の児童公園です。
芸州戦争時には砲台が設置されていました。
小瀬川から500m以上離れているようですが、
対岸に届いたのかな?
それとも渡河の際の後詰の砲台だったのか?
「四境之役砲台跡」碑。
公園内の公衆トイレの横、
公園の隅に跡碑が設置されています。
でも、正面が植栽で見えなくなっていました。
こりゃ酷い。なんでこんなことしたんだろう?
確かに[四境之役砲台跡]と刻まれています。
小瀬川を渡河しようとする彦根勢は、
長州勢による岸からの銃撃を受け、
さらに大砲も浴びせられました。
小瀬川は血の海となりますが、
彦根勢も士気は高く撃ち合いとなります。
しかし密かに大竹側へ渡河していた遊撃軍が、
側面より攻撃してきた為に彦根勢は敗走。
別動隊として苦の坂に侵攻していた高田兵も、
宍戸備前率いる長州勢との戦闘で敗走し、
彦根勢と高田勢は合流して総退却しています。
■関連記事■
・広島県大竹市 長州の役戦跡 苦の坂
長州藩兵と高田藩兵が戦った戦場跡。
・広島県廿日市市 長州戦争史跡 千人塚
大野村の戦いで戦死した新宮藩士の墓。
・広島県廿日市市 残念さん(残念社)
戦死した宮津藩士依田伴蔵の墓。