広島県廿日市市 残念さん(残念社)

西国街道の難所廿日市市四十八坂
当時の主要道路のはずなのですが、
まるでけもの道のようです。


西国街道(四十八坂)」。
確かに難所。
本当に大名行列か通ったのかなと思う程。
当時はもっと人の往来も多くて、
もうすこしマシだったのかもしれませんが、
それほど劇的に違うとは思えませんので、
馬や駕籠持ちは相当の苦労したと思います。

芸州戦争の激戦地となった場所ですが、
どのように両軍が戦ったのでしょうか?
街道は人一人が通れるスペースで、
恰好の標的となりますから、
脇の道の無い場所で行われたのでしょうか?
イメージがイマイチ湧きませんが、
ベトナム戦争映画のような、
ジャングル戦の様だったのかもしれません。


依田神社鳥居」。
西国街道沿いから山側へ道が作られており、
残念さんこと依田伴蔵を祀る神社に至る。
この参道のど真ん中に大きな石があります。


吉田松陰 腰掛けの石」。
萩から江戸へ護送される途中の吉田松陰が、
休憩の際に腰を掛けた石とされます。
景観が良く一休みに丁度良い場所ですが、
罪人用の竹駕籠に入っていた筈ですので、
座っていなかったでしょう。
とはいえ松陰は3度も通っていますので、
一度位は座って休憩したかもしれません。
石のある場所から伸びる依田神社の道は、
松陰の時代にはありませんでした。


依田神社」。
残念さんこと依田伴蔵を祀る神社。
依田伴蔵没後百年に建立されたもの。
平成28年に宮島工業高校の生徒が修繕し、
綺麗な社殿となっていました。
良い取り組みだと思います。


残念社」。
依田神社の社殿から鳥居の場所まで戻り、
西国街道を北上すると残念社があります。
社といっても招魂墓でした。

慶応2年7月9日。
宮津藩士依田伴蔵が一人街道を走りますが、
これを長州勢が誤って狙撃してしまい、
依田は「残念・・」と倒れて死んでしまう。
長州藩は使者を撃った事を遺憾とし、
戦後に祠を建てて祀っており、
祠は「残念さん」と呼ばれました。
征長先鋒副総督本荘宗秀(宮津藩主)は、
早くから止戦を画策していたようで、
宍戸備後助小田村素太郎を放還し、
その事から幕軍内で孤立してしまいます。

本荘は止戦交渉を急ぎますが、
大坂に召還されて罷免されました。
本荘が大阪の幕閣に呼び出され、
広島を発ったのが7月15日。
数度岩国藩に使者を送っていますが、
使者は調停役の広島藩の藩士でしたので、
別件で藩士を派遣したのかもしれません。

仮に依田が正規の使者でなかったとしたら、
見間違える可能性は高かったのかも?


ざんねんさん砦」。
さらに北上すると家屋の石垣が点在し、
ざんねんさん砦と刻まれた石碑があります。
この碑の意味が全くわからず、
廿日市市に問合せたところ、
碑の上の方にある砂防ダム建築の際、
残念社が近くにあることから、
業者がざんねんさん砦と勝手に命名し、
碑を建てたのでは?という回答。
なんだそりゃ?
詳しくは業者に聞いて下さいとのことで、
聞く気も失せたので聞いていません。

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