吉川元春は毛利元就の次男で、
生涯76無敗の戦績を残しており、
戦国最強武将のひとりに挙げられます。
安芸の名門吉川家を相続し、
弟の小早川隆景と共に毛利家を支え、
毛利両川の一角として山陰地方を担当。
その子孫は岩国領主となり、
後に岩国藩主家として続きました。
豊臣秀吉の勢力拡大に伴い、
毛利家は秀吉に従属しており、
弟隆景も直参に取り立てられますが、
元春は秀吉に仕える事を良しとせず隠居。
隠居館の建設を開始しますが、
秀吉の強い要請で九州征伐に出陣し、
その陣中に死去しました。
「吉川元春館跡」。
天正11年(1583)に築城が開始され、
未完成ながらも元春が居住した居館跡。
元春の嫡男吉川元長も翌年に病死し、
吉川家の家督は次男吉川広家が相続。
広家がこの館の主となりますが、
天正19年(1591)に月山富田城に移り、
この居館は廃棄されたようです。
「正面石垣」。
一直線に伸びる3mの石垣。
約400年程も田畑や森に埋もれ、
忘れ去られていた吉川元春館でしたが、
石垣等の遺存状態も良好だったようです。
平成6年より発掘調査が行われ、
数々の発見があったようで、
以降は遺構の保存や活用が行われて、
石垣の修復や復元も行われました。
「館跡内部」。
内部には庭園跡、トイレ遺構、空堀跡、
井戸跡、屋敷跡等が整備されており、
広い敷地を有して見応えがあります。
吉川元春館跡から後方の墓所へ。
墓所入口。
舘の裏手に墓所への道があります。
元春の遺骸はこの地に運ばれ埋葬。
ここは海応寺跡とのことですが、
由緒等はよくわかりません。
「吉川元春墓所」。
少し行くと墓所が現れます。
吉川家の岩国移封以降は荒廃しますが、
文政10年(1827)に修復されたようで、
玉垣や石燈が建てられました。
その後の明治41年にも改修が行われ、
現在の姿となったとのこと。
「随浪院殿前駿州太守四品
拾遺海翁正恵大居士(中央)」、
「万徳院前礼部中翁空山大居士(左)」。
吉川元春の墓と吉川元長の墓。
双方共墓石はなく樹木墓となっています。
※上記の法名は説明板参照。
元春は毛利元就の次男として生まれ、
吉田郡山城の戦いで元服前に初陣を飾り、
吉川興経の養子となって家督を相続。
父元就の隠居後は兄毛利隆元を支え、
隆元、元就死後は毛利輝元を支えました。
尼子再興を願う山中幸盛らと戦い、
幾度もこれを退けており、
上月城の戦いで完全に撃破。
しかし備中高松城の戦いでは、
援軍に向かうも膠着状態となり、
本能寺の変を知らぬままに和睦し、
城主清水宗治が切腹しています。
この事が理由か秀吉を嫌い、
後に隠居して家督を元長に譲りますが、
秀吉は元春に出陣を再三要請。
輝元や隆景の説得により重い腰を上げ、
九州征伐に参加しますが、
持病が悪化して小倉城で死去しました。
元長は元春の嫡男として生まれ、
元春と共に主要な戦に参戦。
元春の隠居に伴い家督を相続し、
秀吉に従って四国征伐に参加しており、
高尾城攻めで功績を挙げています。
九州征伐では父と共に出陣しますが、
父は小倉上入城後に持病が悪化し死去。
元長はそのまま九州で戦いますが、
日向で病に倒れてそのまま死去しました。
「禅岑法師墓」。
元春墓の右にある禅岑法師とされる墓。
禅岑法師は俗名吉川松寿丸と称し、
元春の四男として生まれました。
元春や兄の元長に可愛がられますが、
病で早世してしまいます。
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