下関市からは岩国市は遠くに感じられます。
県内と思われるでしょうが、
下関―岩国間は高速で2時間強。
ちょっとした旅行になってしまうのですが、
同じ県内という事で旅行とも言い辛い。
さらに40km先の広島ならば、
ある程度の旅行って感じなんですけどね。
たぶん岩国市の人も同じなんじゃないかな?
そんな近くて遠い岩国市に行ってきました。
「錦帯橋」。
錦川に架かる世界的に珍しい木造アーチ橋。
日本三名橋に数えられる有名な橋です。
橋を渡るとアップダウンが激しく疲れます。
湿度が高く子供を抱っこしていたので、
渡るだけでバテバテでした・・。
「巖流ゆかりの柳」と「槍倒し松」。
橋を渡った左河縁にある2本の木。
巖流ゆかりの柳は佐々木小次郎ゆかりの柳。
佐々木小次郎は岩国の出身とされ、
錦川河畔で柳の枝を斬ったり、
水辺の燕を斬ったりした末に、
秘剣燕返しを編み出したという。
佐々木小次郎は謎の多い人物で、
色々と不明な事が多く、
この話も小説によるところらしい。
また槍倒し松というのは、
槍を立てて進むのに邪魔になる松の事で、
普通大名行列の先頭には槍持ちがおり、
街道では槍を垂直に立てて進むのですが、
他藩の城下では礼儀で槍を倒して通ります。
しかし大藩の大名行列の中には、
槍を立てたまま城下を通過する藩もあって、
これに憤慨した岩国の武士達が、
槍を倒さなければ城下を通れないように、
わざと邪魔になる松を植えたとの事。
この位置では邪魔にはならないだろうし、
大藩だろうが無礼は許されない気もします。
色々つっこみどころのある木ですねぇ。
「吉川広嘉公像」。
岩国領3代領主吉川広嘉の銅像。
錦帯橋創健の偉業を称えて建てられました。
「錦帯橋碑」。
吉川広嘉公像のななめ後ろにありますが、
だれも見向きもしません。
「吉川經家弔魂碑」。
羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、
鳥取城を守備していた吉川経家の弔魂碑。
羽柴秀吉は鳥取城を兵糧攻めした為、
鳥取城内は飢えで餓死者が続出しました。
経家は城兵の助命を条件として降伏し、
城主の経家は切腹することとなりますが、
秀吉は経家を助命しようとします。
しかし経家は自害の意志を変えなかった為、
秀吉は仕方なく切腹を許可。
この碑は吉川家当主吉川元光の建立。
「佐々木小次郎像」。
吉川英治の小説[宮本武蔵]の中で、
佐々木小次郎は岩国の出となっています。
実際はよくわかっていない謎の人物で、
岩国出身は吉川英治の創作。
ちなみに当の吉川英治は小田原の出身で、
岩国吉川家とは関係ありません。
苗字もきっかわではなくよしかわ。
「昌名館付属屋及び門」。
昌名館は7代領主吉川経倫の隠居所で、
廃藩置県後に岩国県庁が置かれました。
現在は吉川資料館となっています。
「錦雲閣」。
明治18年に城跡が公園となった際、
旧藩時代の櫓に似せて造られた絵馬堂です。
「吉香神社」。
歴代岩国領主を祀る神社。
享保13年に白山神社内に建てられ、
明治18年に現在地に移築されました。
「致遠有坂先生之碑」。
岩国の砲術家有坂致遠の顕彰碑。
有坂家は代々砲術家の家系で致遠は七代目。
玖珂村の石田三左衛門の子として生まれ、
中島流を学んで有坂家の養子となりました。
有坂流、石田流、荻野流等17流派を修め、
さらに安盛流、合武三島流、自得流を修め、
長崎に赴き高島秋帆に西洋砲術を学び、
遂には砲術24流派の奥義を極めます。
高島秋帆による江戸での銃隊運用演習では、
砲銃打方や西洋流銃陣を諸大名に披露。
その後は岩国に帰って西洋砲術を研究し、
近隣諸国より門人を多く抱えます。
天保14年には吉川家の命で大砲を鋳造し、
近隣諸国からも依頼を受けるようになり、
有数の西洋砲術の指導者となりました。
安政2年、死去。
致遠の子有坂長良は[日新隊]砲術師範。
鳥羽伏見の戦いに参加しており、
徳山藩の山崎隊と共に、
大阪城一番乗りの功名を得ています。
「吉香公園」。
上記に紹介した場所は吉香公園の敷地内。
岩国城の土居と呼ばれる場所で、
この土居に藩主御殿があって、
岩国領の政庁となっていました。
その中央には噴水のある広場があり、
市民の憩いの場となっています。
ロープウェイを使って山頂へ。
「岩国城天守」。
岩国城は平時の領主居城である土居と、
山頂の横山城とで構成されていましたが、
一国一城令により山頂の横山城は破却され、
これは復興天守で昭和37年に再興。
周防国にはこの岩国城しかないはずですが、
長府藩の櫛崎城破却に合わせました。
天守からは岩国城下が一望できます。
町割りは当時とさほど変わらないという。
錦帯橋も見えますね。
天守内部は刀剣の展示が豊富で、
刀好きにはたまらないでしょう。
天守最上階での我が子達。
みよちゃん&ゆきちゃんです。
「岩国城跡旧天守台」。
本来の天守のあった天守台跡。
復興の際に錦帯橋から見えるように、
現在の位置に建てられたようです。
吉川家は毛利元就の次男吉川元春を祖とし、
その次男吉川広家が岩国を拝領し、
岩国領を治めました。
関ヶ原の戦いで徳川家康に内通した広家は、
毛利家安堵を条件に毛利勢の動きを封じ、
毛利家を戦闘に参加させませんでした。
しかし戦後はその条件が反故にされ、
毛利宗家は取りつぶしに決定。
長門周防2国が広家に与えられますが、
広家はこれに驚いて家康に直訴。
家康は広家の願いを聞いて、
領地は毛利家に与えられて長州藩が立藩。
広家は毛利家より岩国3万石を与えられ、
岩国の領主となります。
しかし大減封は広家のせいという声は、
家中から聞こえ遺恨を残す事になります。
幕府からは優遇されていた事実もあり、
実際に独立が図られた事もあり、
関係修復は幕末まで持ち越す事となります。
【岩国藩(岩国領)】
藩庁:岩国城
藩主家:吉川家
分類:3万石、外様大名(長州藩支藩)
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錦帯橋について。
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岩国藩の戦死者を招魂する招魂社。
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広島藩との藩境で戦闘が開始されました。