防府市東部にある富海は小さな漁村でしたが、
山陽道の宿場町であり、上方への玄関でした。
赤丸が富海。
左側の江泊山の向こう側が三田尻湾です。
ここが上方への玄関と云われる所以は、
「飛船」と呼ばれる客船の拠点で、
ここから海路上方へ向かうのが一番早かったから。
この「飛船」は高速で航行することができました。
長州のほとんどの志士がここから上方を目指しましたし、
他国から長州に来る志士のほとんどがここに上陸しました。
ここには、伊藤俊輔と井上聞多が上陸した場所の碑があります。
「伊藤・井上両公上陸跡地」。
元治元年6月24日。
伊藤と井上はここにあった飛船問屋入本屋に上陸。
英国滞在中に四ヶ国艦隊の馬関攻撃計画を知り、
急遽帰国して英国船で姫島に送られ、
そこから「飛船」を使って富海に上陸しています。
伊藤・井上上陸地は残念ながら面影は皆無ですが、
そこから東には「船蔵通り」という場所があり、
当時の雰囲気が感じられます。
「船蔵通り」。
JRの高架下をくぐると「船蔵通り」。
左側の石垣が船蔵でした。
道路から右側が海だったようです。
「飛船問屋大和屋政助の船蔵」。
船蔵通りを進むと見えてくるのが、飛船問屋大和屋の船蔵。
補修はされていますが、建屋も当時のもののようです。
ここの主人大和屋政助(清水与兵衛)は、
尊攘志士達の支援者の一人で、
上陸した他藩の志士らの世話をしたり、
徳山藩(富海は徳山領)に軍資金の献納をしました。
中山忠光が落ち延びて来た際も、
ここの2階にしばらく匿われてますし、
俗論党に追われた高杉晋作がここに来た際には、
嵐の中で飛船を出して馬関に逃がしています。
大和屋政助は明治19年に亡くなっていますが、
富海駅の近くの墓地に墓があるそうですが、
今回は行くのを忘れてました。
船蔵通りから一本北側の通りが旧山陽道です。
富海本陣があった場所は、大和屋の右斜め向い。
「富海本陣の門」。
宿場町でもあった富江には本陣もあり、
現在は本陣の門が残されています。
島津斉彬や篤姫もここで休憩しました。
さて、数々の志士達を運んだ「飛船」ですが、
文献だけに登場し、絵、図面、写真などは残されておらず、
その形状がどのようなものだったのかわからないらしい。
謎の船なんですねぇ。
■関連記事■
・防府市富海 大和屋政助及び入江石泉墓所
飛船問屋大和屋主人大和屋政助の墓所。
・吉田松陰2度目の江戸遊学①
吉田松陰も富海の飛船を利用しています。
・中山忠光④
中山忠光は大坂から飛船に乗って長州に入りました。