宮市は防府天満宮の門前町であり、
西国街道と萩往還が交わって栄えたという。
「御国廻御行程記 宮市」。
大鳥居前の四ッ辻を中心とし、
東の前小路、 西の中市や新町、
南の竪市などが賑わいをみせていました。
防府市宮市周辺。緑の線が西国街道。
青い線が萩往還。ピンク線が天満宮の参道。
青でぼかした辺りが宮市宿です。
「宮市宿跡」。
大鳥居前の四ッ辻は萩往還との追分。
右側の建物は有名なお土産屋の天満屋で、
昭和天皇も行幸の際に土産を買ったとの事。
大鳥居前には天下御物送場、目代馬継所、
高札場等が置かれていましたが、
現在はその面影は大鳥居のみです。
「宮市本陣兄部家跡」。
宮市宿の本陣を務めた兄部家邸の跡。
平成23年に火災により焼失しており、
現在は門と倉が残るのみとなっています。
「防府天満宮」。
訪問時は年末で初詣の準備中。
菅原道真が大宰府に左遷される際、
本州最後の寄港地として勝間の浦に到着。
道真はここは未だ京と地続きであるので、
願わくばここに留まりたいと訴えつつ、
九州へ旅立ったという。
道真が大宰府で死去した日、
勝間の浦に神光が現れた為に、
里人は道真公の霊魂が帰ってきたとして、
その翌年に社を建立しています。
これが最初の天満宮の由緒であり、
以後は多くの参拝客が訪れるようになり、
宮市は天満宮を中心に栄えました。
「芦樵寺」。
前小路にある臨済宗の寺院。
大内家24代当主大内弘世が建立し、
大内家の没落後は衰退していましたが、
寛文年間(1661~1673)に南山和尚が、
常栄寺の末寺として復興しました。
後に三田尻の車塚に移転させられて、
毛利諸家や長崎奉行、諸大名の宿坊となり、
明治元年にここにあった浄土宗の正定寺が、
西念寺と合併して移転した為、
芦樵寺が跡地に入って現在に至ります。
山門前に豪商岡本三右衛門の碑があります。
「贈正五位岡本三右衛門碑」。
岡本三右衛門は宮市の豪商だった人物で、
村の年寄も務めていました。
勤皇の志篤く、志士の来訪が頻繁で、
志士らの難渋を救ったという。
世話となった志士達は、
中谷正亮、大楽源太郎、久坂玄瑞、
寺嶋忠三郎、船越清蔵、入江九一、
松浦松洞、高杉晋作等の長州志士の他、
土佐の坂本龍馬、肥後の宮部鼎蔵等。
晩年は吟詠自適の生活を送り、
明治10年に死去しました。
東へ行った周防国分寺に至る通り。
この辺りは昔の雰囲気が残っています。
「武光家屋敷跡」。
防府天満宮大宮司を務めた武光家の屋敷跡。
武光家は古代豪族土師氏の子孫とされ、
周防国司土師信貞の次男土師武光を祖とし、
※信貞が防府天満宮を創建。
以降は武光を姓として大宮司となり、
その後35世まで務めています。
文久3年10月。
遊撃隊をはじめ、撃剣隊、市勇隊、神威隊、
金剛隊、郷勇隊、狙撃隊、荻野隊等、
長州藩の諸隊が宮市に集結します。
八月十八日の政変で長州藩は京を追われ、
これに憤慨した諸隊幹部らは激論を重ね、
進発論が論じらるようになりました。
そして池田屋事件を経て進発が決定し、
諸隊は西市から三田尻へ向かい京へ出帆。
禁門の変が勃発するに至ります。
長州の緊迫した状況下ですが、
宿場は相当繁盛したことでしょうね。
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