明治10年9月24日。
鹿児島の城山に立て籠もる西郷軍に対し、
城山を完全に包囲した政府軍は、
総攻撃を開始しました。
3日前の21日には、
西郷軍から西郷の助命の為に、
河村主一郎と山野田一輔が訪ねて来ますが、
征討総督府参軍川村純義が突っぱねた為、
助命交渉は決裂。
自決勧告を山野田に持たせて帰しています。
※河村は抑留されて生き残っています。
午前4時に総攻撃が開始され、
四方からの砲撃と、
雨のような銃撃が加えられ、
西郷隆盛及び幹部は全員戦死。
兵卒など200余名が降伏し、
最後の戦闘は4時間後に終了しました。
岩崎谷を担当した第4旅団の佐竹義方は、
島津応吉邸前で首のない西郷の遺体を発見。
浄光明寺跡に運んで検死が行われます。
遺体の右手尺骨の古傷と、
陰嚢水腫により遺体が西郷と断定され、
捕虜の証言から西郷の最後の様子も判明。
首級は従僕の吉左衛門が手拭いに包んで、
折田庄助の屋敷に入った事がわかりました。
山縣有朋の命を受けた千田登文中尉は、
折田邸をくまなく捜索して、
門前の溝中に埋められた西郷の首を発見。
※竹藪や土手の説も。
千田は第一発見者前田恒光一等兵を連れ、
首を三方に乗せて本営に運びます。
山縣、曾我祐準、川村純義等が検分し、
持って来た首級が西郷のものだと断定。
遺体の胴体は浄光明寺の庭に寝せられ、
首級は門に向けて置かれたという。
将兵が西郷の顔を拝める位置であり、
西郷の死を知らしめる意味と推測されます。
遺体は木櫃に納めて浄光明寺跡に埋葬され、
木標が建てられましたが、
明治12年に現在の南洲墓地の位置に改葬。
他の西郷軍戦死者の遺骨も集められました。
さて首級を発見した千田は加賀藩の出身。
西南戦争の翌年の紀尾井坂の変で、
大久保利通を暗殺したのも、
加賀藩出身の島田一郎ら5人。
※及び旧鳥取藩士1人。
大藩ながら活躍しなかったと云われますが、
幕末維新という時代を締めくくったのは、
加賀藩の出身者であったようですね。
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