江戸と同様に、大坂にも町奉行所が設置され、
月交代の月番制で運営されていたようです。
江戸では「北」「南」と分かれていましたが、
大坂は「東」と「西」で分けられ、
東町奉行所は「東の御番所」、
西町奉行所は「西の御番所」と呼ばれました。
大阪城西側周辺(東町奉行所の場所)
大手前の大阪合同庁舎が建てられている場所が、
大坂東町奉行所のあった場所です。
「大阪合同庁舎」。
大坂東町奉行所は維新後に廃止されましたが、
兵部省の所管となって陸軍の施設が建てられ、
現在は大阪合同庁舎1号館、3号館などが建っています。
大手前は今も昔も公務の町。
「東町奉行所址」。
町奉行は町方の行政や司法を担当しており、
現在でいえば役所と警察と裁判所が一緒になったもの。
些細な訴訟から重大な事件まで、
相当量の職務があったものと思われます。
だから東と西の2ヶ所に分けられたのでしょうね。
そんなわけで幕末の不貞浪士達の取り締りまでは、
どうしても手が回らない。
そこで京都で取締を行っている壬生浪士組に、
大坂で暗躍する不貞浪士の取締を依頼したのでした。
ところが出張してきたのは、
確かに強いが不貞浪士よりタチの悪い芹澤鴨。
北新地で酔った力士と道を譲る譲らないで揉め、
挙句は刃傷さわぎとなります。
斬られた力士が在籍する小野川部屋の力士達は、
復讐の為に角材を持って大挙して押しかけ乱闘に発展。
力士側に多数の死傷者を出す結果となりました。
現場に居合わさず宿舎で一件を聞いた近藤勇は、
事件の顛末を東町奉行所に届けたとされています。
※西町奉行所という説も。
東西各奉行所には、それぞれ与力30騎、
同心50人が配属されており、
実際の職務は彼らが行っていました。
司法と行政が合わさった様なものである為、
良い与力も悪い与力も出現します。
良い与力の代表としては、やはり大塩平八郎。
汚職を嫌う正義感あふれる与力であった大塩は、
東町奉行所の与力でした。
組違いの同僚与力弓削新左衛門の汚職を摘発し、
破戒僧や切支丹の摘発にも功績があり、
市民の尊敬を集め、特に汚職役人の摘発は、
京都や奈良、堺の奉行所にまで波及し、
上方の腐敗が一時的に一掃されています。
理解者であった東町奉行高井実徳の辞職後に隠居し、
陽明学を学んで、隠居後は私塾で子弟を指導しました。
二度の大飢饉が起こり、一度目は西町奉行矢部定謙が、
大塩の意見を取り入れて大事には至りませんでしたが、
二度目は東町奉行の跡部良弼が、
実情を省みずに幕府へ廻米を行い、
また商人達が米を買い占めた為に高騰して、
町に餓死者があふれました。
これに対して大塩は、跡部に様々な献策を行いましたが、
跡部は聞き入れず、さらに廻米を徹底。
京都からの流民も押し寄せ、大坂の治安も悪化しています。
これらの事態に大塩は、門人、民衆と共に蜂起。
しかし門人数人の密告によって、
わずか1日で鎮圧されました。
大塩は再起を誓って潜伏しましたが、
捕吏に見つかって自害しています。
また、悪い与力は結構いるもので、
幕末の天誅事件には、東町奉行所の与力が、
標的になったものあります。
元治元年3月18日大坂西横堀助右衛門橋で、
東町奉行所与力北角源兵衛が、尊攘を唱えながら、
実際は無実の人を殺め、
富商にたかったという罪状で梟首されました。
隣の京都が幕末の動乱の中心だった事、
また経済の中心地だった事、
そして京都への玄関としての港があった事、
大坂には沢山の事件になる要素があったわけで、
大坂町奉行所は大忙しだった様です。
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