但馬の医師小森正造の次男小森賢次郎は、
幼少から秀才として知られており、
武芸にも秀でていました。
天保6年に儒学者志して上京し、
天保11年に中山忠能に召抱えられます。
後に中山家の家臣田中近江介の養子となり、
田中河内介と改称。
中山家の庶務を取り仕切り、
中山忠愛や中山忠光の教育係も務めました。
孝明天皇の子を宿した中山慶子の出産では、
中山邸の御産殿建設を指揮し、
生まれた祐宮(明治天皇)の教育係も務め、
安政3年に祐宮が皇居に入った後、
中山家を辞して隠居しています。
その後は勤皇志士と交友したようで、
尊皇攘夷運動に邁進しました。
※久留米の中村貞太郎や真木和泉、
庄内浪人清河八郎などと交友。
薩摩藩の志士らとも親交しており、
寺田屋で蜂起を計画しますが、
島津久光の使者が派遣されて、
志士達に暴発を止めるよう説得。
これが押問答となって刃物沙汰へと発展し、
結局7名死亡3名重傷の惨事となります。
残った者は投降しており、
引取先のある者は国許に返されました。
隠居の身の田中河内介やその他の浪人は、
薩摩藩が身柄を預かる事になり、
大坂で薩摩藩の船に乗せています。
しかし薩摩藩は彼らを船内で殺害。
田中河内介とその息子と甥、
その他の同行した浪人達は、
薩摩藩士に斬殺されてしまいます。
田中らの遺体は海に捨てられ、
流れ着いた小豆島で埋葬されました。
その田中河内介に纏わる怪談あります。
田中河内介がどうなったかを語ると、
語った者に不幸が降りかかるという噂が、
どこからともなく語られるように。
大正初期。何人かが怪談話をしていると、
一人の見慣れない男が入ってきた。
その集まりには小説家の泉鏡花や、
歌舞伎役者の市川猿之助もいました。
男は自分も話に参加させてくれと言い、
田中河内介の死の話をするという。
男が語ると一同はそれに聞き入りますが、
いつまで経っても本題に入ろうとしない。
いつのまにか最初に戻ってしまう。
延々と繰り返される話に皆飽きてしまい、
一人、二人と席を立つものが現れます。
いつしか部屋は一人の男だけとなり、
二人きりでも話を延々に繰り返す男。
最後の一人は急に用を足したくなり、
この男に気味が悪くなったせいもあって、
男に断って用を足しに行く。
数秒の後に別の一人が帰って来ると、
男はうつぶせになって死んでいた。
皆が一斉に席を外していた僅かな時間に、
何の外傷もなく死んでしまっていたという。
男は誰もいなくなった後、
本題を話してしまったとされます。
後に明治天皇は養育係の河内介を思い出し、
田中河内介はいかがいたしたかと尋ね、
誰も答えられないでいると、
寺田屋事件の当事者小河一敏が進み出て、
元薩摩藩士らを見ながら、
「ここにおられる某君等が指図して、
薩摩へ護送の際に刺殺され、
非業の死を遂げました」と答たという。
これを発言した小河には、
不幸が降りかからなかったようですね。
田中河内介と怪談
コメントを残す