松平頼徳

家老切腹するケースは多くあったようで、
長州藩でも三家老が切腹していますし、
他藩も政局に負けた派閥の家老が、
切腹させられた例も数多い。

しかし藩主が切腹となる事は殆ど無い。
武士は主君への忠誠存在理由であり、
仮に藩主が切腹という事にでもなれば、
その家臣が何をしでかすかわかりません。
赤穂浪士なんかもそのパターンで、
死を賭して主君の仇を討つ
という事になったわけです。
※江戸初期には大名同士の刃傷事件が、
 浅野内匠頭以外にも結構ありますが、
 戦国時代より時間が経ってないせいか、
 血の気が多かったのでしょう。

切腹させて赤穂事件のような事が起きれば、
幕府の威光も地に落ちるわけで、
その大名を処罰する場合は、
主に隠居蟄居謹慎などが選ばれ、
代わりにしかるべき家老がその責を問われ、
切腹するといったパターンになってきます。
禁門の変での長州藩もそのケースでした。

戊辰戦争においても各藩の降伏条件として、
一番に挙がるのが藩主の進退についてです。
武士としては「主君の死と、自らの死」は、
比べるに値しないものですからね。

そんな幕末の動乱期に300諸藩のうち、
唯一切腹となったのが宍戸藩主松平頼徳
宍戸藩は水戸藩の御連枝(支藩)で、
歴代藩主は水戸藩主の補佐を勤めました。
松平頼徳は8代松平頼位の長男に生まれ、
弘化3年に父の隠居に伴い藩主となります。

元治元年。
横浜鎖港を求め筑波山で筑波勢が挙兵。
周辺宿場で略奪を繰り返していました。
この事態を重く見た幕閣は、
筑波勢の追討を決定し、
常陸国下野国の諸藩に出兵を命じ、
幕府陸軍なども動員されます。

一方で対立する市川三左衛門諸生党は、
水戸藩の実権を掌握し、
筑波勢の家族らの弾圧を実行。
これに驚いた筑波勢は水戸城で交戦し、
諸生党に敗れて退却しました。
江戸水戸藩邸では筑波勢に同情的で、
水戸城明け渡しの使者の派遣が決定。
藩主徳川慶篤の名代として、
宍戸藩主松平頼徳が選ばれます。

頼徳の一行には水戸藩執政榊原新左衛門や、
武田耕雲斎山国兵部らの一行が加わり、
多数の攘夷派藩士も加わって約3000人が、
開城を勧告する為に水戸へ向かいました。
この報に驚いた諸生党は、
城門を閉ざして頼徳一行の入城を拒否。
双方が戦闘状態となりました。
やむをえず那珂湊に布陣すると、
筑波勢がこれに合流。
再度水戸城下に入っていますが、
筑波勢合流で追討軍が諸生党側で参戦し、
頼徳一行は筑波勢と同一視されて、
再び敗れて後退しました。

藩主名代で主流側のはずであった頼徳。
入城を拒否された為に諸生党と交戦し、
敵の敵は味方と筑波勢と合流した為、
自らも追討の対象となってしまいます。
筑波勢らはその後西上し、
追討軍との交戦は本意ではない頼徳は降伏。
自らの潔白を幕府に訴えようとしますが、
その機会は与えられず切腹を言い渡される。
勿論宍戸藩は改易となり、
父頼位も連座して官位剥奪。

なんとも可愛そうな・・・・。
完全に水戸藩騒乱のとばっちりですね。
筑波勢と合流したのがマズかった・・・。
軽々しく合流しちゃダメだったんですね。

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