天城池田家初代当主池田由之は、
池田恒興の嫡男池田元助の嫡男であり、
本来は池田宗家の嫡流に当たります。
しかし恒興及び元助が討死した事により、
幼少の為に家督を相続する事が出来ず、
恒興の次男池田輝政が家督を相続。
この為に由之は輝政に仕える事となり、
鳥取藩への入封の際に米子城を与えられ、
池田宗家が岡山藩に移封されると、
天城3万2000石を与えられており、
次席家老として代々仕えました。
天城池田家の菩提寺は海禅寺ですが、
その墓地には2、3、7代当主の墓のみ。
他の当主の墓は別の場所にあります。
「池田家墓所」碑。
県立倉敷天城高等学校南門の側にある碑。
墓所へは南門から左へ学校に沿って進み、
少し行くとあります。
「天城池田家墓所」。
陪臣ながら大名並の石高を有する天城池田家。
墓所も大名クラスの広大なものです。
歴代当主の墓の位置はバラバラなのですが、
2代より順を追って紹介。
※初代由之の墓は鳥取県米子市。
「備州老臣池田由成之墓」。
天城池田家2代当主池田由成の墓。
2代由成の墓は海禅寺にもありますので、
詳細の説明は割愛致します。
「天義院殿上林署源元了入大居士(左)」、
「聞壽院殿守丹羽妙花大信女(右)」。
天城池田家3代当主池田由孝の墓と、
由孝の室光姫の墓。
3代由孝の墓も海禅寺にありますが、
奥方の墓のこちらにしかありません。
「圓通院殿鴻臚卿智開禪光大居士」。
天城池田家4代当主池田由勝の墓。
由勝は3代当主由孝の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しますが、
僅か7年で病死しています。
由勝の代に赤穂事件が起こっており、
事件を起こした大石家の縁者であった為、
2000石減封されて知行は3万石になりました。
5代当主池田保教は宗家を相続し、
岡山藩5代藩主池田継政となっています。
「池田和泉源政純之墓(左)」、
「池田和泉源政純室松平氏夫人之墓」。
天城池田家6代池田政純の墓と、
政純の室豊姫の墓。
6代政純は3代藩主池田綱政の未子に生まれ、
5代保教が宗家を継いだ為に、
代わって天城池田家の家督を相続しました。
56年間の長期に渡り当主を務め、
61歳で死去していますが、
室の豊姫も後を追うように2日後に死去。
7代当主池田政喬の墓は海禅寺。
「豊前執政池田和泉源政考之墓」。
天城池田家8代当主池田政考の墓。
7代政喬の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しています。
26年の当主在任の後に死去。
「備前執政源政徳之墓(左)」、
「池田出雲源政徳室池田氏之墓(右)」。
天城池田家9代当主池田政徳の墓と、
政徳の室輝姫の墓。
9代政徳は生坂藩5代池田政恭の三男で、
8代政考の娘輝姫を娶って婿養子となり、
義父の死去に伴い家督を相続。
28年の当主在任後に死去しました。
「備前執政源政昭之墓(左)」、
「池田出羽源政昭室浅野氏之墓(右)」。
天城池田家10代当主池田政昭の墓と、
政昭の室輝姫(義母と同名)の墓。
10代政昭は9代政徳の長男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
長州征伐では藩兵を率いて広島まで出陣し、
征長総督徳川慶勝に藩主の意見書を提出。
慶応元年に死去しています。
室の輝姫は実母と同名ですが、
広島藩家老三原浅野家の出身。
「正五位池田政和之墓」。
天城池田家11代当主池田政和の墓。
10代政昭の次男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
戊辰戦争で藩兵率いて東北に出陣しており、
後に京都で清和院門警備を担当しました。
明治24年に男爵に叙爵されており、
明治40年に隠居してその5年後に死去。
「正四位勲四等男爵池田政祐之墓(左)」、
「男爵池田政祐室島村氏之墓(右)」。
天城池田家12代当主池田政祐の墓と、
政祐の妻春子の墓。
12代政祐は11代政和の嫡男に生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
近衛歩兵第三連隊に勤務しましたが、
大正15年の大正天皇の崩御の際に殉死。
乃木希典の殉死を礼讃していたという。
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・岡山県倉敷市 海禅寺/天城池田家墓所
天城池田家の2代、3代、7代当主の墓所。