海禅寺は倉敷市藤戸町天城にある臨済宗寺院。
天城池田家2代池田由成が菩提寺として創建し、
父池田由之の菩提を弔いました。
織田家の重臣であった池田恒興は、
小牧長久手の戦いで羽柴秀吉に味方しますが、
嫡男池田元助、婿の森長可と共に討死。
池田宗家の家督は次男池田輝政が相続し、
秀吉に従って大大名となっており、
後に徳川家康に仕えています。
小牧長久手で討死した嫡男の元助には、
嫡男池田由之がいましたが、
8歳と幼かった為に家督を継ぐ事が出来ず、
輝政の次代も嫡男池田利隆が相続しました。
一方で由之は嫡流ながら家臣となっており、
米子3万2000石を与えられています。
「海禅寺」。
元禄11年(1698)に焼失していますが、
3代当主池田由孝によって再建。
天城池田家より寺領を与えられて隆盛し、
明治時代に一時衰退していたようです。
境内は狭く本堂の写真が撮れませんので、
今回は山門の写真だけ。
海禅寺裏山に天城池田家の墓所があります。
「天城池田家楫山墓所①」。
楫山墓所と呼ばれる天城池田家の墓所。
墓所は2ヶ所に分かれており、
ここには2代と3代の当主の墓所があります。
「心宗院殿前羽刕大守一率幻入大居士(中)」、
「榮壽院殿春陽養華大姉(右)」。
天城池田家2代当主池田由成の墓と、
由成の側室榮壽院の墓。
2代由成は初代由之の子に生まれ、
証人(人質)として江戸で生活していました。
父由之は逆恨みで殺害されてしまい、
これに伴い家督を相続。
※大小姓神戸平兵衛が由之に国許帰還を訴え、
交代が来るまで待てと言われますが、
神戸は従わずに帰路の行列に紛れ込み、
これを見つけた由之は神戸を叱ります。
しかし神戸はこれを恨み由之を殺害。
後に切腹処分となりました。
池田宗家が鳥取藩から岡山藩に移ると、
天城陣屋を建設して居館としました。
その後も家老として藩政を担っており、
53年の長きに渡って当主を務めて隠居。
余生を天城で過ごしています。
ちなみに娘の熊は赤穂藩家老大石家に嫁ぎ、
大石内蔵助良雄を産みました。
つまり大石内蔵助のお爺さんです。
「天義院殿前上林署法玄了入大居士」。
天城池田家3代当主池田由孝の墓。
3代由孝は由成の三男に生まれ、
幼少期は証人(人質)として江戸で暮らし、
大名証人制度が廃止された為に岡山に帰還。
父の隠居に伴い家督を相続しました。
28年の当主在任後に死去。
4、6、8代以降の墓はここにはなく、
天城高校脇にある天城池田家墓所。
ちなみに上記2、3代の墓もあります。
「天城池田家楫山墓所②」。
楫山墓所には7代当主の墓もありますが、
少し離れて山を登った場所。
その参道は木々で閉ざされていますので、
木々をかき分けて行かなければなりません。
「徳芳院殿前倉部郭孤室有鄰大居士」。
天城池田家7代当主池田政喬の墓。
岡山藩4代池田継政の次男に生まれ、
6代当主池田政純の養嫡子となり家督を相続。
温和で慎み深く孝行者であったとされ、
家臣にも慈愛の心で接した人物で、
更に書画や茶道、散楽も嗜む文化人でした。
「智光院殿雲臺慈照大姉」。
由孝の室唯姫の墓。
6代政純の五女として生まれ、
藩主の次男政喬の妻となりました。
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岡山藩池田宗家の居城跡。