岡山県岡山市 岡山城

岡山城は、宇喜田秀家によって築城された平山城。
秀家は豊臣家五大老のひとりでしたが、
関ヶ原の戦い西軍であったために改易され、
同じく関ヶ原の戦いで、
西軍から寝返った小早川秀秋が岡山城に入ります。

しかし秀秋は2年後に早逝してしまい、
無嫡であった為に小早川家は断絶。
代わって池田輝政の次男池田忠継が5歳で岡山城に入り、
岡山28万石の藩主となりました。
忠継の母は徳川家康の次女督姫で、家康の外孫にあたり、
しかも2代将軍徳川秀忠の養女鶴姫を正室に迎え、
外様ながら幕府との関係は深かったのですが、
忠継は無嫡で死去してしまい、
同じく同母弟の池田忠雄が跡を継ぎます。

忠雄の次代は長男の池田光仲が継ぎましたが、
幼少であった為、山陽道の要所である岡山は荷が重いと、
池田宗家鳥取藩との国替えが行われて、
岡山藩は池田宗家が藩主として入封する事となりました。
以後、池田宗家が岡山31万石の藩主家として、
廃藩置県まで続いています。


目安橋」。
本丸大手門へと続く大手橋。
名の由来は、橋の袂に目安箱が設置されていた為。
池田宗家岡山藩初代藩主池田光政は、
江戸時代初期の名君のひとりであり、
日本最古の庶民学校「閑谷学校」の設立、
新田開発や治水事業、藩士の教育や質素倹約令、
宗教改革などの良政を行っています。
この目安箱もそのひとつで、
庶民の意見を集めて施政の参考としました。


鉄門跡」。
岡山城の本丸は下段中段本段に別れており、
本丸大手門より本丸下段に入り、
この鉄門を通って本丸中段へと進みます。
ここには鉄板で覆われた櫓門が建てられていましたが、
明治15年に他の建物と共に取り壊されました。


表向御殿跡」。
本丸中段にあった表向御殿の跡。
表向御殿は藩主の公邸兼藩庁として、
城内で最大の面積を誇る建造物。
明治12年に取り壊されています。


月見櫓」。
岡山城唯一の現存建築物。
外側から見ると二層櫓ですが、
内側から見ると実は三層になっています。
城内で最も優美な姿をしていた櫓だったとのことで、
この月見櫓と天守閣のみが取り壊しを免れています。


不明門」。
本丸中段より本段へ続く櫓門。
本段は藩主の私生活を行う場所で、
限られた者しか、入る事が出来ませんでした。
この櫓門は昭和41年、天守と共に再建されたもの。


天守閣」。
三層六階の漆黒の天守閣。
全国的にも珍しい不等辺五角形の天守台です。
豊臣秀吉大坂城や、
毛利輝元広島城と並ぶ近世城郭の先駆けであり、
その外観から別名「烏城」と呼ばれました。
取り壊しを免れて旧国宝として認定されていましたが、
空襲で焼失してしまい、昭和41年に再建されています。
カッコいい天守ですね。

天守閣裏手から廊下門を通って本丸下段へ。

開祖宇喜多氏顕彰之碑」。
岡山城を築城した宇喜多秀家の顕彰碑。
宇喜多家は天下布武を目指す織田信長に対して、
毛利家と共に備前で抗戦しますが、
毛利と手を切って信長に臣従します。
以後は織田勢として毛利勢と戦い、
備中高松城の水攻めにも参加。
秀家は幼少でしたが、家臣らに補佐されています。

豊臣秀吉が天下を取ると、
秀吉より「」の字を与えられて寵愛を受け、
前田利家の娘で秀吉の養女豪姫を正室として迎え、
豊臣政権化で重きを成し五大老となっています。

関ヶ原の戦いでは西軍として戦い敗北。
落ち延びますが、捕らえられて八丈島に流され、
そこで死去しました。


剣豪奥村寅吉翁之寿碑」。
剣豪という文字に反応して写真に収めましたが、
残念ながら江戸期の人物ではなく、
明治後期から昭和にかけての剣術家のようです。
彼の父奥村左近太は幕末の人物で、
奥村二刀流の創始者。
剣術修行で諸国を廻り、全国の剣術家と対戦し、
二刀流を編み出しました。
維新後は、警視庁主宰の剣術大会などで、
その名を轟かせています。

岡山城本丸を出て後楽園へ。

月見橋」。
本丸と後楽園を結ぶ橋。
現在は鉄製の橋ですが、当時は木製の橋でした。
長さは100m程で、
橋からの天守閣の眺めはなかなかのものです。
たぶん月見にも最適だったのでしょう。


後楽園」。
金沢の兼六園、水戸の偕楽園と並ぶ日本三名園のひとつ。
2代藩主池田綱政によって造営されたもので、
池泉回遊式の庭園として藩によって管理され、
後園または御後園などと呼ばれていました。
後楽園の名称は廃藩置県後に一般公開されてから。
我々の年齢だと「後楽園球場」が連想されますが、
あれは水戸藩上屋敷内に造られた庭園からの名称で、
江戸期から後楽園と呼ばれていたので、
岡山の方が後からなのですが、規模が全く違います。

訪問時は早朝ですので開演前。
門だけ撮影してそそくさと退散しました。


月見橋から岡山城天守閣を望む。
なかなかの景色です。

幕末の岡山藩藩主は、水戸藩主徳川斉昭の九男池田茂政
つまり、最後の将軍徳川慶喜の弟でした。
前藩主池田慶政は藩論をまとめる為、
尊攘派の盟主である斉昭の子を養嫡子としたとされています。
その為、慶喜に追討令が出されると、
兄を討つ事は出来ぬと隠居し、
支藩である鴨方藩主池田章政がその跡を継ぎました。
章政は尊攘派からの信望が厚く、新政府に従って藩兵を派遣。
北越奥羽箱館の各戦線を戦っています。

【岡山藩】
藩庁:岡山藩
藩主家:池田宗家家
分類:31万5000石、岡山大名

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