岡山県倉敷市 東雲院(生坂藩仮藩庁)

岡山藩の支藩は2つあって、どちらも岡山新田藩
藩は大概が藩庁のある地(国持なら国)の名が付けられます。

新田藩の多くは本藩の蔵米支給で成り立つ藩であり、
実際は「1万石以上」という大名の称号を得るための方便で、
宗家がその分家を諸侯にするため「1万石以上」を与え、
領地を分与して宗家の家格を下げないように、
新田開発によって生じた増益分」というカタチで、
1万石以上の蔵米を分与したのが多くの新田藩でした。

よって新田藩には、領地の政務を行う藩庁が存在せず、
藩庁の「土地名+藩」という名称ではなく、
本藩の土地名+新田藩」という呼び方をします。
ネットなどの説明では、
藩庁は本藩の「城内に置かれた」となっていますが、
要は藩政は本藩が行っており、藩庁が無かったのです。
※とはいえ、実際に土地を与えられた支藩も存在し、
 そうなれば必然的に藩庁を置く事になり、
 その藩庁の「土地名+藩」の名が付きました。

岡山藩初代藩主(宗家)池田光政の三男池田輝録は、
新田を分知し別家を立てることを願い出て許され、
1万5000石の分与が決まりました。
実際に開発された新田領地が与えられる予定でしたが、
宗家の内高より蔵米支給となっています。

新田藩の藩主は定府大名が多かったのですが、
※諸侯に列する為の大名家であり、
 また統治するべき土地も無い為。

輝録流岡山新田藩は城下に居住していたので、
ちゃんと参勤交代を行っていたのでしょう。

この輝録流岡山新田藩には、
藩主すりかえのエピソードがあります。
4代藩主池田政弼が死去し、
実子永次郎が数え2歳で跡を継ぎ、
池田政房として5代藩主となりましたが、
翌年に政房は夭逝してしまい、お家断絶の危機となります。
そこで、岡山藩主池田治政の庶子鉄三郎が選ばれ、
ひそかに江戸に送って政房とすり替えられました。

鉄三郎は庶子であったためか幕府に出生を届けておらず、
池田家の血も入っていた為に選ばれたわけですが、
夭逝した本物の政房は数え3歳(2歳)。
鉄三郎は数え6歳(5歳)で、ウチの子二人と同じ歳の差。
どう考えてもバレるだろうと思いますが、
バレなかったのか?
それとも幕府は判ってて気付かぬフリをしたのか?
とにかく輝録流岡山新田藩は存続しています。

幕末の藩主池田政礼は、岡山藩主名代として御所の警護を勤め、
維新後も岡山藩と共に新政府に恭順しています。


東雲院」。
新政府が新田藩主を諸侯と認めなかった為、
輝録流岡山新田藩は都宇郡などに領地を持つ事となり、
統治する藩庁が必要となりました。
そこで仮藩庁に選ばれたのが「生坂」にある東雲院で、
藩名も生坂藩と改称しています。
寺伝のよると初代藩主輝録は、
儒教を擁護して神社仏閣を迫害し、
東雲院の住職増意は3年間の苦難の末に許されたという。
輝録流岡山新田藩は蔵米支給のはずですが、
生坂周辺の領地は持っていたという事かも?
また、輝録は名君で民政に尽くしたという別の話もあり、
輝録流岡山新田藩が政務を行っていなかったかといえば、
どうもそうではないようです。
生坂と輝録流岡山新田藩には何の繋りが感じられますが、
生坂を藩庁にしたのも、このあたりの理由かもしれませんね。

実際に東雲院が仮の藩庁となったのは1年だけで、
廃藩置県によって生坂藩は消滅しています。

【生坂藩】
藩庁:東雲寺(仮藩庁)
藩主家:輝録流池田家
分類:1万5000石、外様大名(岡山藩支藩)

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