國清寺は池田宗家2代池田利隆が建立した法源寺を、
3代池田光政が祖父池田輝政、父利隆の菩提寺に定め、
寺名を輝政の法号に因んで改めたお寺です。
※輝政の法号は國清院殿泰叟玄高(高広)大居士。
「山門」。
國清寺は岡山空襲によって多くの建物を焼失しましたが、
この山門と大愚堂、鐘楼は焼失を免れています。
「本堂」。
國清寺の本堂は昭和40年に再建されたもの。
空襲以前の本堂は創建以来の大建築だったという。
本堂の西側に墓所があり、
鴨方藩、生坂藩両池田家の墓所となっています。
まずは鴨方藩主の墓。
鴨方藩は岡山藩2代池田綱政が弟池田政言に分地し、
岡山新田藩として立藩させた岡山藩の支藩で、
鴨方藩は明治に入ってからの名称でした。
※ここではややこしいので鴨方藩、生坂藩に統一。
「禅通院殿従五位下前小府監池田氏源政倚蘭渓良秀大居士」。
鴨方藩2代池田政倚の墓。
初代政言の長男で政言の死後に家督を相続。
在任中、禁裏の造営手伝普請を務めました。
また、岡山藩3代池田継政の離婚問題で、
幕府より事情聴取を受けています。
※継政は仙台藩主伊達吉村の娘和姫を離縁し、
実家の仙台藩に送り返して絶交しており、
この事態を重く見た幕府は、
近い立場にある政倚に事情聴取しています。
「縁海院殿従五位下前小府監池田氏源政香玄如禅哲大居士」。
鴨方藩4代池田政香の墓。
朱子学に通じた優秀な人物であったようで、
学者らと対等に討論するなど将来を有望視されますが、
僅か28歳で病没しています。
「常観院殿従五位前信州刺史池田氏源政共絶圓道徹大居士」。
鴨方藩7代池田政共の墓。
6代池田政養の次男で父の死去に伴い家督を継ぎますが、
19歳で継嗣なく病死しています。
家督は仮養子に登録されていた三男池田政広が継ぎますが、
生来病弱であった為に四男虎吉を政広と名乗らせ、
藩主がすり替わっています。
「大寶院殿従五位下前信州刺史池田氏源政善仁徳洪範大居士」。
鴨方藩8代(すり替り後)池田政善の墓。
病弱な兄にすり替わって池田政広として御目見し、
後に政善と改名しています。
鴨方藩9代池田政詮は岡山藩10代池田章政となり、
鴨方藩10代は政詮の長男池田政保が継ぎ、
明治維新を迎えます。
続いて生坂藩主の墓。
生坂藩は岡山藩初代光政の三男池田輝録が立藩。
鴨方藩と同じく江戸期は岡山新田藩で、
生坂藩の名称は明治に入ってからのもの。
「大機院殿前城州刺使心源宗徹大居士」。
生坂藩5代池田政恭の墓。
4代池田政弼の次男池田政房が2歳で家督を継ぎますが、
政房は翌年に早逝してしまった為、
岡山藩5代池田治政の庶長子をすり替え、
政房として幕府に届け、後に政恭に改名しています。
「大覺院殿前城州刺史圓海玄空大居士」。
生坂藩7代池田政和の墓。
福本池田家当主池田喜長の次男で、
生坂藩6代池田政範の養嗣子として迎えられ、
天保10年に家督を継いでいます。
政和は安政2年に次男池田政礼に家督を譲って隠居。
安政5年に死去しました。
見当たる藩主の墓は以上。
墓所には藩主以外の一族の墓が沢山あります。
「亮徳院殿前典膳郎儉質自厚大居士」。
岡山藩2代池田綱政の次男池田軌隆の墓。
軌隆は庶子であった為に家督は継げず、
部屋住みのまま一生を終えていますが、
長男池田政晴は生坂藩初代輝録の養子となり、
生坂藩2代藩主となっています。
「定心院殿柏巖宗樹大居士(右)」。
旗本寄合屋形池田家10代池田政樹の墓。
御使番、常州変動見廻役を務め、
慶応元年の将軍徳川家茂の大坂進発の供をしています。
明治2年、死去。
國清寺には支藩両家だけではなく、
藩主以外の宗家一族の墓所でもあったようで、
嗣子や側室の墓も散見できました。
また、池田氏以外の墓碑も建てられており、
家老家や重臣の墓所でもあったようです。
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生坂藩池田家の仮藩庁跡。
・岡山県岡山市 曹源寺(正覚谷池田家墓所)
岡山藩池田家の歴代墓所のひとつ。