岐阜県海津市 高須陣屋跡

高須藩尾張藩の支藩。
尾張藩2代徳川光友の次男松平義行が、
信濃に3万石を分与されて高井藩を立藩し、
後に高須に移って高須城跡に陣屋を建設。
藩主家は参勤交代を行わない定府大名で、
四谷に上屋敷があったことから、
四谷松平家と呼ばれました。

尾張藩の御連枝であるため、
尾張藩に嗣子が絶えた場合はこれを相続し、
実際に尾張藩8代藩主、14代藩主、
15代藩主が高須藩の出身となっています。
特筆されるのは10代松平義建の子供達で、
次男の14代尾張藩主徳川慶勝をはじめ、
三男の松平武成は3代浜田藩主
五男の徳川茂栄は11代高須藩主、
15代尾張藩主、10代一橋家当主を歴任。
六(七)男の松平容保は9代会津藩主
八男の松平定敬は4代桑名藩主
十男の松平義勇は13代高須藩主と、
多くの藩の藩主となっています。
まことに錚々たるメンバーなのですが、
残念ながら今回訪問する高須陣屋は、
彼らは生まれ育ったわけではありません。
※高須藩に限らず藩主の子は、
 江戸で生まれる事が多い。



岐阜県海津市高須周辺(高須城跡の場所)


主水橋」。
高須陣屋の遺構は殆ど残っていませんが、
陣屋を囲んたが水路として残っています。
この橋はコンクリート製の橋ですが、
かつては木製の橋が架けられており、
徳永寿昌時代の家臣稲葉主水の屋敷が、
この橋周辺にあった為に主水橋と呼ばれ、
四谷松平家が高須藩主となってからも、
継続してそう呼ばれました。


城跡公園」。
高須陣屋の御殿があったであろう場所は、
公園として整備されています。
元々は高須城が建てられていた場所で、
南北朝時代氏家重国が築いたという。
豊臣時代高木盛兼が城主となりましたが、
関ヶ原の戦いで徳永寿昌に攻められて落城。
高須城は寿昌に与えられていますが、
次代徳永昌重が普請工事遅延を理由に改易。
天領となった後に小笠原貞信が入封します。
後に貞信は越前勝山藩に転封となり、
天領を経て四谷松平家が入りました。
城から陣屋になった経緯は不明ですが、
天領となった時期に廃城されたのでしょう。
また非常に古い城ですので、
始めから陣屋規模だったのかもしれません。

上記のように10代義建の子供達は、
諸藩の養子となっており、
11代となったのは五男の松平義比
しかし安政の大獄により、
尾張藩14代徳川慶勝が隠居処分となり、
義比が尾張藩15代徳川茂徳となります。
代わって茂徳の子松平義端が、
高須藩12代藩主となっていますが、
義端は3歳で早逝した為、
次いで義建十男松平義勇が13代に就任。
彼も幼くして藩主となりますが、
その治世で維新を迎え明治2年に隠居し、
最後の藩主は園部藩からの迎えられ、
14代松平義生が就任します。

家格も高く血脈も多く残った高須藩松平家。
最後の藩主が養子とは皮肉な話ですね。

【高須藩】
藩庁:高須陣屋
藩主家:高須松平家(尾張徳川御連枝)
分類:3万石、親藩大名(定府大名)

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