高須四兄弟 徳川慶勝

左から、
八男松平定敬、七男松平容保
五男徳川茂栄、次男徳川慶勝
高須藩10代松平義建の子供らで、
幕末期に重要な藩の藩主であった4人を、
高須四兄弟と呼ばれました。
松平義建の子供は10人いるのですが、
他の兄弟は早くに死去しており、
この4人は波乱の人生を送りました。

長兄(正式には次男)の徳川慶勝

高須藩の宗家である尾張藩は、
4代続いて将軍家周辺からの養子。
10代藩主 徳川斉朝
  一橋家世子徳川治国の長男
11代藩主 徳川斉温
  11代将軍徳川家斉の十九男
12代藩主 徳川斉荘
  11代将軍徳川家斉の十二男
13代藩主 徳川慶臧
  田安家徳川斉匡の十男
通常ならば跡継がいない場合は、
支藩の高須藩より藩主を擁立しますが、
幕府からの押しつけ養子を、
仕方なく藩主としてきました。
このような藩士らは不満を募らせており、
13代藩主の徳川慶臧が死去すると、
藩士らの不穏な空気を感じたのか、
高須藩から慶勝(当時は松平義恕)を、
藩主として就任させます。
※12、13代の時も慶勝は藩主候補。

慶勝は尊皇攘夷派で大老井伊直弼と対立し、
安政の大獄で隠居させられてしまい、
後継は弟の徳川茂徳が就任。
その茂徳は兄に遠慮して隠居し、
慶勝の実子徳川義宜が跡を継ぐと、
後見役として表舞台に復帰して、
再び尾張藩の実権を握りました。
第一次長州征伐では征討軍総督に任命され、
寛大な処置を持って戦火を交えず凱旋。
次の第二次長州征伐には反対し、
上洛して御所警衛を担当します。

大政奉還後は徳川宗家お構いなしに、
新政府の一員のような振る舞い、
慶喜への辞官納地催告も自ら行っており、
鳥羽伏見の戦いでの旧幕軍敗戦後は、
大坂城新政府軍として受け取っています。
もう完全に勝ち馬に乗ったようで、
徳川宗家の存続も考えていない様子。
今までの幕府の仕打ちが悪いのか、
始めからの尊皇攘夷の人だったのか・・・。
挙句の果てに自分の藩内の佐幕派を弾圧し、
藩内を血の海にしています。

こんなになりふりかまわずなのに、
維新後は政治に関われず。
弟達は徳川の為に戦いますが、
彼はどんな思いで見ていたのでしょうが?

■関連記事■
高須四兄弟 徳川茂栄
 高須四兄弟。尾張藩主、一橋家当主。
高須四兄弟 松平容保
 高須四兄弟。会津藩主。
高須四兄弟 松平定敬
 高須四兄弟。桑名藩主。
岐阜県海津市 高須陣屋跡
 高須藩の藩庁。

高須四兄弟 徳川慶勝」への2件のフィードバック

  1. kii 投稿作成者

    コメントありがとうございます。
    そうですね。記事では結構きつい言い方していますが、
    彼も幕末の偉大なキーマンであり、
    巨大な尾張藩を牽引していましたし、
    彼の匙加減で歴史は変わっていた事でしょう。
    八雲町では名古屋弁が話されているとの事、
    面白いですね。

    返信
  2. 芝崎浩三

    母方が高須家と繋がりがあるので、悪く云うつもりなどありません。むしろ「偉大な名君」として尊敬してます。義勝公がいなければ、この国はどうなっていたでしょうか?イギリスの半植民地になっていてもおかしくなかったでしょう。明治維新後は北海道に渡り、開拓事業をやられていました。八雲町はその際、尾張藩から移住した方々が拓いた町です。
    だから公用語は「名古屋弁」と(笑)

    返信

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