吉田松陰門下の三秀、
松門四天王のひとり吉田稔麿について。
池田屋事件で新選組に殺害され、
新選組関連では大物として登場しますが、
どんな人物かはあまり知られていません。
萩の吉田稔麿の誕生地の石碑は、
「吉田稔丸誕生地」と書かれていて、
名前さえ間違えられています。
※ 稔丸も正しいようです。
ちなみに松陰と姓は一緒ですが、
血縁は全くありません。
松下村塾には久保五郎左衛門の頃から通い、
※当時の松下村塾は寺子屋。
12歳で小者として江戸長州藩邸で働き、
薪割りや小間使いをしています。
働き詰めの毎日だったようで、
思うような学問は出来なかったという。
安政3年に江戸から萩に帰り、
松陰が松下村塾で学問を教えてると聞き、
松下村塾に再入門します。
そのうちに塾生の中で頭角を現し、
高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一と並び、
門下四天王と称されました。
松蔭は稔麿のことを、
「その識見は暢夫(高杉晋作)に似ている」
としています。
「どちらも頑質だが暢夫は陽性で、
無逸(稔麿)は陰性のそれである。
両人とも人の駕御を受けず。
高等の人物である」と評価しました。
ここで陽性、陰性と表現されてますが、
晋作は明るく、稔麿は暗いの意味ではなく、
晋作の識見は表に出てくる激しさがあるが、
稔麿の識見は内に秘めたものという意味。
有名な逸話として稔麿は人物評が好きで、
門下生を絵で表したという。
晋作は「鼻ぐりのない暴れ牛」
久坂は「裃を付け端然と座っている坊主」
入江は「木刀」
山縣は「棒きれ」
と、表現しました。※異説あり
稔麿も他の門下生同様に尊攘活動に邁進。
久坂らと共に光明寺党を結成し、
下関の外国船に砲撃を加えました。
その報復で砲撃を受けて下関の砲台は壊滅。
これではまずいと晋作は奇兵隊を結成し、
稔麿もそれに習って屠勇隊を結成します。
奇兵隊は士農工商の身分を問わず、
広く隊士を受け入れた軍隊でしたが、
屠勇隊は更に士農工商の枠から外れ、
被差別部落からなった部隊でした。
この屠勇隊は差別制度を作った幕府に対し、
最も勇敢に戦ったとされています。
この屠勇隊の結成は、
吉田稔麿の最大の功績といえるでしょう。
長州藩は八月十八日の政変で京を追われ、
京に潜伏する長州派志士達は、
復権を目指して池田屋で会合を開きますが、
その会合中に新選組に襲撃されます。
その際に藩邸にいた稔麿は、
逃げてきた藩士の報告を受け、
槍を片手に現場に急行。
その途中で討ち取られました。
また別の説では会合に参加していて、
池田屋から負傷しながら脱出。
藩邸までたどり着きますが、
門を開けてもらえずその場で自刃。
それ以外にも会合に出席していたが、
丁度稔麿は用事で退出していて、
戻ると新選組の襲撃の真最中で、
斬り合いに参加して討ち取られたなど・・。
とにかく池田屋事件で無念の死を遂げます。
新選組には宮部鼎蔵に並ぶ金星でした。
生きていれば総理大臣にもなれたと云われ、
その死で維新が1年遅れたともされます。
吉田稔麿もそうですが、
四天王の生きていた明治維新は、
一体どのようなものになったのでしょう?
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