江戸時代の日本海には冬になると、
多くの鯨がその姿を見せていました。
長州の各浦でも捕鯨が行われ、
庶民や下級武士たちの食卓に並びました。
日本人は鯨を余すところ無く使います。
鯨油は勿論の事、骨や皮、肉など、
そのすべてを活用しました。
当時の捕鯨(古式捕鯨)は、
沿岸近くを回遊する鯨を網に追い込み、
銛で突く「網取捕鯨」が主流で、
鯨が一頭で七浦賑わうとされていました。
長門市青海島の通浦(かよいうら)は、
長州捕鯨最大の基地として栄えていました。
人々は豊富な資源と繁栄を齎す鯨に感謝し、
犠牲になった鯨一頭一頭に戒名を付け、
捕鯨のシーズンが終わった頃、
法要が行われました。
現在でもその法要(浄土宗なので回向)が、
向岸寺で毎年1回行われており、
戒名が書かれた鯨鯢過去帖も現存します。
捕鯨が日本の文化だったことが伺えますね。
ペリー艦隊が開国を迫った理由のひとつが、
日本を捕鯨船の補給基地にしたかったから。
実はこれは非常に重要な問題。
幕末には急に鯨が捕れなくなったようで、
安政6年に吉田稔麿が江戸勤務の父に、
手紙を送っており、
「鯨を送りますと言っていましたが、
この冬はあまり出回っておらず、
見つけても非常に高価で手が出ません。
ご勘弁下さい。」と伝えています。
捕れなくなった原因・・・。
お察しの通り欧米諸国が太平洋で乱獲し、
日本海に鯨が入ってこなくなった為。
欧米の捕鯨は鯨油が目的だったようで、
鯨を捕獲した後に船上で採油して樽に保存。
鯨油を採り終えた鯨の死骸を海に捨てます。
そしてまた次の鯨を捕獲に向かいました。
欧米諸国全体で2万頭以上の鯨が、
1年間に乱獲されました。
日本海に鯨が入ってこなくなる筈です。
開国が日本の古式捕鯨の衰退の助長に、
一役買ってしまったのです。
しかし日本人は鯨が取れなくなった原因が、
乱獲によるものだとは気づいていません。
もしもそれを知っていたならば、
攘夷は更に激しくなっていたことでしょう。
近海に入ってくる鯨だけを細々と獲り、
その鯨を余すところ無く使い、
一頭一頭に戒名を付ける程に、
鯨資源を大事にしていた日本の捕鯨。
鯨油を捕るためだけに大量に捕獲して、
油を抜き取ったら海に捨てる欧米の捕鯨。
油田が発見され鯨油がいらなくなったら、
「鯨がかわいそう」だなんて、
どの口が言っているのでしょうかね。
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