襲ったのは外国船だけではなかった①/朝陽丸事件

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下関攘夷戦は外国船砲撃だけではなく、
結構メチャメチャやってたりします。

文久3年5月10日
田ノ浦沖停泊のペンブローク号を発見。
翌日の午前2時頃に砲撃を開始します。
ペンブローク号は周防灘へ逃走しました。

5月23日
通報艦キャンシャン号を砲撃。
キャンシャン号は損傷しつつも海峡を抜け、
翌日長崎に到着しました。

5月26日
軍艦メデューサ号を砲撃。
大きな被害を受け周防灘へ逃走しました。
この一連の長州側の砲撃を受けて、
米仏は軍艦を派遣して報復行動に出ます。

6月1日
馬関海峡に入った米艦ワイオミング号は、
長州砲台の射程外を航行。
港内に停泊する長州藩の軍艦の庚申丸
壬戌丸癸亥丸に砲撃を開始します。
壬戊丸、庚申丸は撃沈。癸亥丸は大破。
砲台も砲撃により甚大な被害を受けました。


ワイオミング号の下関攻撃。

6月5日
仏国軍艦セミラミス号とタンクレード号が、
報復攻撃のため海峡に入ります。
前田砲台壇ノ浦砲台を沈黙させ、
陸戦隊を上陸させて砲台を占拠。
長州藩の援軍は艦砲射撃によって阻まれ、
その間に陸戦隊は撤収。
両軍艦は横浜へと帰還しました。

フランス軍に占領された前田砲台。

上記が下関攘夷戦の大まかな流れです。
その後に高杉晋作が奇兵隊を結成。
破壊された砲台も整備して、
海岸防備を強化しました。
幕府はこの一連の攘夷行動に対して、
外国船への砲撃については、
方針が定まらぬうちの妄動は国辱で、
異船にみだりに発砲しないように

という意の詰責書を送ります。
また小倉藩領にも砲台を築いたとして、
詰問使中根一之允らを派遣します。

7月23日
詰問使中根一之允らの幕府軍艦朝陽丸が、
小倉藩領の小倉湾に到着します。
藩士河野四郎大八木三郎左衛門が合流。


朝陽丸。

7月24日
朝陽丸が下関へ。
波多野金吾(広沢真臣)、宮城彦輔
入江九一赤根武人らが対応し、
朝暘丸側に小郡にて応接する旨を伝えます。
翌日、中根一之允ら幕使は下関を出発。

停泊中の朝陽丸に小倉藩士がいるのを発見。
奇兵隊が抜刀して朝陽丸に乗り込み、
これを占拠してしまいます。
河野、大八木はこれまでと自刃し、
死体は海に投げ捨てられました。
幕使が小郡で藩政府と交渉している間、
朝陽丸は奇兵隊によって占拠されます。

8月19日
小郡滞在中の幕使一行は暗殺者に襲撃され、
目付鈴木八五郎と中根の従者二人が殺害。
中根は難を逃れました。

8月22日
危険を感じた中根ら残り3人の幕使は、
三田尻の渡海船便で帰還するために、
椹野川を小舟で下る。
そこへ漁民に化けた暗殺者が襲い掛かり、
舟中で斬り殺されて海へ投げ捨てられます。

幕府の使者を殺すという大事件。
藩政府は行方不明と幕府に報告します。
未だ朝陽丸は奇兵隊に占拠されたまま。
奇兵隊らは戦闘で失った軍艦の代わりに、
借用すると主張しました。

9月3日
吉田稔麿が朝陽丸の奇兵隊士を説得。
朝陽丸は開放されます。

幕使暗殺と軍艦拿捕。
とてもタダじゃすみません。
ですが、この事件はうやむやに。
この間に八月十八日の政変が発生。
その後の池田屋事件禁門の変など、
時勢がめまぐるしく変化し、
それどころではなくなっています。
襲ったのは外国船だけではなく、
幕艦も襲ってこれを占領していますが、
実はこれだけではないのです。

続きは次回。
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