文久3年5月10日からの攘夷攻撃では、
関門海峡を通行する外国船だけでなく、
日本国籍の船にも攻撃を加えています。
藩兵に船籍を見分ける知識はなかったので、
とにかく通行する洋式船を攻撃した様です。
勿論北前船などの日本船とわかる船は、
攻撃対象とはなっていませんが、
洋式船は攘夷攻撃の対象としました。
実際に薩摩藩船籍が攻撃されたこともあり、
薩摩藩の抗議と話し合いによって、
藩の旗章や提灯などの目印を付けた船は、
攻撃しないという取り決めもされました。
後の米仏報復攻撃や奇兵隊の結成を経て、
攘夷戦は続行中だったのですが、
危険な通行を外国船は避けるようになり、
関門海峡は平穏な状態が続きました。
そんな中で朝陽丸事件が起きています。
さて、その朝陽丸をめぐる事件の最中、
京都では八月十八日の政変が発生。
長州藩と長州系公卿は京都を追われます。
七卿落図。
当時は迅速に情報は伝わりませんが、
2ヶ月もすれば情報が伝わり、
薩摩会津憎し!という感情が生まれます。
そんな状況下で事件は起こりました。
文久3年12月24日。
薩摩藩船籍(幕府貸与)の洋式船長崎丸が、
関門海峡を通過します。
兵庫から長崎に向かう途中の事でした。
それを発見した前田砲台、壇ノ浦砲台は、
長崎丸に向けて一斉砲撃。
驚いた長崎丸は急旋回しますが、
長崎丸は炎上して沈没してしまいます。
乗組員68人は冬の海に投げ出され、
そのうち28人が死亡しました。
この中には島津斉彬に抜擢され、
反射炉の開発に携わった宇宿彦右衛門も、
これに含まれています。
船内には繰綿600本、荏子油10挺、
炭酸水酸化鉛22箱、酸化鉛二鉛2箱、
御用金150両が積まれていたが、
海の藻屑となります。
この事件は海外貿易品を積んでいたため、
外国船と誤認したふりをして、
意図的に砲撃したともされています。
しかし仮にその情報を掴んでいたとしても、
兵庫を出発した22日から考えても、
その情報が下関に到着するには、
もっと時間が必要でしょう。
取り決められていた薩摩船とわかる目印で、
※マスト等に配置された提灯の並びなど。
薩摩船と認識して攻撃したとすれば、
目印がアダとなったということですね。
既に薩摩藩は敵という認識があったはずで、
報復攻撃とも考えられています。
壇ノ浦砲台跡。
とはいえ長州側の史料では、
砲撃後に薩摩藩船だと判明したとしており、
報復攻撃という証拠はありません。
偶然にしては少し出来すぎですが、
当日は肥後藩の船も停泊しており、
それに攻撃をしてないことからも、
報復攻撃の線は濃厚です。
事件の顛末ですが、
藩上層部はすぐに薩摩藩に謝罪しており、
一応解決したように思えたのですが。
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