高杉晋作の上海掩留日録③

//③
つづき。

5月23日
朝、五代と英人ミユルヘツトを訪ねる。
※英宣教師ウィリアム・ミュアヘッド
 半世紀にわたり上海に滞在した人物。

ミユルヘツトは耶蘇教師で、
耶蘇教を上海市民に教えている。
城内の教堂はミユルヘツトが関わり、
ミユルヘツトの常にいる場所もまた、
教堂や病院施醫院という。
全ての西洋人教師の外邦への布教は、
必ず医師を伴って行われる。
病気の士民困窮者を救い入信させるのが、
この教師が外邦人に布教する術である。
我が国の士民は警戒しなければならない。
[聯邦志略]等の書を求めて帰る。
※米宣教師ブリッジマンの著書で、
 中国語の米国地理歴史書。

25日
朝に五代と英人ミニュヘルトを訪問。
不在だったので館に帰る。
黃昏に甚だ風雨。
この日花旗國の蒸氣船一艘が破裂。
※花旗は星条旗の事で花旗國は米国の事。
即死者は凡そ22人(内清人16人、花旗人11名)、
※計算が合いません。
船名ヲニーヲンスタール、積高160t、
この船はサンフランスシコから来たという。
※サンフランスシコ(笑)。

26日
風は静かで雨のち晴。
朝日が軒を照らしている。
清人馬銓が来た。話は上手で書も達者。
予の為に[楠樹書屋]の四字を書いてくれた。
馬銓はこの江州縣令だが喪中の為、
今は免官となっているという。
この日官吏和蘭商船に至る。
幕府が船を購入する為という。
従属した中牟田が言うには、
この船は長さ20間、2本柱、頗る精巧で、
千歳丸より余程良いらしく、
5年前に造られたもので、
船と船具で37000ドルという。
幕府には必要ないものである。
我藩がこの船を使用すれば、
頗る有益であろう。
しかし我藩から千里も離れているので、
何も出来ない。溜息が出るばかりだ。

27日
中牟田と共に英人ミニユヘルを訪ねる。
[上海新報][數學啓蒙][代數學]等を求め帰る。
※上海新報は上海の日本語新聞。
 數學啓蒙は13世紀末刊行の数学書。
 代數學はたぶん洋書の中国語訳でしょう。


28日
書坊が来る。書籍を求める。

29日
書坊を訪ね書籍を得て帰る。

6月朔旦
風が強く外出できない。
同僚らは甚だ不平を漏らす。
但し中牟田という男子がいる為、
予は大いに力を得た。
梅花の節。天気は甚だ悪し。

6月11日
※6月2日の間違い?

6月3日
雨。官吏に陪従して馬銓の家に至る。
城内の街市は狭く風雨が諸子を窮させた。

6月4日
書坊が来る。[皇清全圖]を求む。
※[皇輿全覧図]か?

6月5日

6月6日
晴。終日俗事。
この日は甚だ炎熱で90℃という。
遅くまで寝苦しかった。
※90℃はあり得ませんが、
 それくらい暑かったのでしょう。


6月7日
晴。官吏が道臺城の外郭を徘徊。
予もまた陪従する。
大南門に至り少し休憩した後、
左折して田間路に入る。
野菜及びの種法は、
本朝と変わらないようだ。
茫々たる田野が続き山は見えない。
左側に旌旗がはためいている。
これは支那人の防御陣地である。
右折して西門に向かう。
小さな寺があるが頗る衰えている。
これは賊が破壊した為という。
西門に入り關帝廟に至る。
関羽を祀り道師がこれを護る。
道師とは本朝でいう山伏の如きもの。
ここを去って孔聖廟に至る。
廟堂は二つ間には草木が生えている。
賊から良く防御されていた様だが、
今は英人の陣営となった。
廟堂の中で兵卒が銃を枕に寝ており、
これを見て堪だ漑嘆した。
英人は志那を守る為として、
聖像を他所に移してここに居るという。
英士官が日本人を廟堂に導き、
茶や砂糖を出してくれたようで、
官吏はこれを受けた。
小憩して去り、午後に館に帰る。

6月8日
千歳丸に至り五代を訪ねる。
国書が来たようで五代に内容を聞く。
京の政情が慌ただしいようで、
我藩からもこれは聞いている。
予はこれを警戒して聞く。
五代は既に沈静化されたので、
心配する事はないと言った。
※この件は定かではありませんが、
 寺田屋事件と思われます。

予の魂は千里の海濤を飛び越え、
空しく東方を望み、
空しく慨然久しくする。
午後に蘭館に至り短銃地図を求めた。

6月9日

6月10日

6月11日

6月12日
城內に至り街市を徘徊する。

6月13日
中牟田と夜に門外を歩く。
有米利堅人が予と中牟田を導き、
その寓舍まで案内した。
この米人は横浜にいたようで、
日本の形勢を理解しているようだ。
その話では大阪開港したならば、
自分はまた日本に行く事にあるだろうと。
昨日の新聞紙によれば、
大坂開港を大君が遂に許可し、
これを大名らが不満を持っている。
故に開港は遅れるかもしれないと。
大名の中で水戸が最も強大と聞く。
その正否を中牟田は言葉巧みに逸らし、
真実を答えずに去って行った。
自分が思うに水府は甲寅以来、
数十人の志士が死亡しているが、
外国人はこれをまだ知らないのだろう。
※甲寅は安政元年。

6月14日
曉天に中牟田と西門外に至り、
支那人の鍊兵をみる。
練兵所は防賊陣營である。
その兵法を見ると威南塘兵法に似ている。
※威南塘は明の将軍戚継光の事で、
 兵法に秀れ[紀效新書][練兵実紀]等、
 実戦に基づいた兵書を著しています。

銃隊は金鼓を以って令とし、
操引、操進、其の他は変わらない。
銃砲は全て中國製で甚だ不精巧。
兵法や兵器に西洋のものはない。
唯し陣屋は西洋のものである。
帰路に大南門の衞士玩松を訪ね、
鍊兵の事を聞く。
玩松曰く英佛兵に長毛賊の防衛を請い、
近日また我兵卒に西洋兵銃を学ばせる。
従って賊は恐れて近寄る事は出来ないと。
この事から支那の兵術は不能で、
西洋銃隊の强堅さを知るべきなり。
十二點鐘の後で館に帰る。

6月15日
終日俗事で過ごす。

6月16日
晴、中牟田と外行。
米利堅人店に至り七穴銃を求める。
※この銃はSmith&Wesson M1
清人某の家に訪問。
某は予に書を求めたので、
予は恥じずに扇に古い詩を書いた。
そこを去ってミユルヘルを訪ねるが不在。
そのまま館に帰った。

6月17日
五代が来て話す。
午後に中牟田と英人の預かる砲台へ行き、
アルムストロンク砲を見る。
この砲は12ポンド。
今我が国に伝わる大砲は、
大概その筒口から玉藥を入れるが、
この砲は後ろから玉藥を入れる。
故に甚だ便利である。
英人アルムストロンクの新製で、
その名をその砲に名付ける。
この砲は6門上海にあるという。
※この16、17日の行動ですが、
 同行した中牟田の日記によれば。
 一日ずれて17、18日となっています。


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以上で上海掩留日録は終了ですが、
千歳丸は7月5日に帰路に就きますので、
まだ上海には滞在しています。
次の動向は続航海日録からで、
高杉晋作の航海日録③
7月5日より日記が再開しています。

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