①/②/③
「遊清五録」のひとつ「上海淹留目録」を読む。
これは高杉晋作の上海での滞在日記です。
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5月7日。
拂暁に小銃の音が陸上から響く。
皆はこれは長毛賊と志那人が、
戦っている音だといい予もそう思った。
※長毛賊とは太平天国軍の事。
これが正しいのは実戦を見たからである。
予は密かにこれを喜んだ。
官船の碇泊している所は申口という。
川幅両岸から僅か十町余りで、
そこに流れる水は濁ってる。
英人曰く数千の碇泊する船の志那人は、
皆この濁水を飲んでいるとのこと。
我が国の人が始めてこの地に来て、
朝夕濁水を飲むと多くの病人が出るだろう。
黄昏に小舟が官船を通り過ぎるを見る。
旗には「軍需公務」の四字が書かれていた。
戦争に使用されるものであろう。
5月8日。
官吏は皆上陸して道臺に至り支那人が応接。
その他の者も皆同様である。
予は風邪気味で官吏に同行を辞退した。
官吏が皆船を降りたので船は静寂。
旅の疲れが祟っただろう。
日暮に官吏らが帰船。
同僚らは上陸中の話で盛り上がる。
予は彼らの側で笑ってるだけであった。
5月9日。
此の日は行李や諸荷物を陸揚げ。
午後に官吏が上陸。寓居を宏記洋行とする。
宏記洋行は中国の宿で館主は志那人張叙秀。
居室は狭く官吏はこれに不満を訴え、
議論し罵り合っていた。
その醜態を見て笑いをこらえた。
5月10日。
晴。官吏が荷物の受け取りに黙耶洋行に行く。
予もまたこれに付いて行った。
黄昏に和蘭人が来て曰く、
長毛賊が上海の三里外まで迫っている。
明朝には必ず砲声が聞こえるだろう
官人はこれを聞いて大いに警戒。
しかし予はこれを喜んだ。
夜三更後、同僚の肥前藩士中牟田が、
※佐賀藩士中牟田倉之助の事。
長崎行の外国船が出発すると言うので、
予は故郷に書簡を送ろうと思い、
「兄は如何か予は云々」と奉家への書を作り、
これを中牟田に託した。
11日。
官吏が官船に行くので予も従い、
午前に館に帰る。
午前に官吏は皆外へ出て行った。
予は中牟田と館に残り共に語り合う。
中牟田曰く航海で必要な学ぶべきは、
運用術、航海術、蒸気術、砲術、造船術等。
12日。
朝は英書を読む。
午後に官吏が佛蘭西館に行くので、
予らもこれに従う。
佛蘭西コンシュルが門前で官吏を出迎えた。
※コンシュルは領事の事。
官吏はコンシュルと共に登楼し、
予らは楼下で待って酒や菓子を食べる。
官吏に従うと必ず美酒佳肴にありつけた。
官吏の応接が終わり佛人商店に至る。
大小の器械が山の様に置いてあるが、
有用そうなものを要求すると恐ろしく高い。
日暮れに館に帰る。
13日。
官吏が亜米利加、英吉利西、
欧羅斯の商館を訪問する。
※欧羅斯=ヨーロッパ。
最初に行ったのは英館で、
兵卒が肩ケベルで館門を守り、
館内に野陣が張っており、
大砲小銃が並べられていた。
英人は志那人を長毛賊から守っていると聞く。
英館を出て15~6間行くと橋が見えた。
橋の名は新大橋という。
今から去る事7年前に古橋が朽ち崩れ、
これを志那人は再建出来ずにいた。
よって英人がこれを再建した為、
志那人は毎日通行するのに、
英人に通行料を払うようになった。
亜米利加館に至る。
亜人の応接は佛人とは違い、
酒や肴などは出されなかった。
魯館に至る。
※欧羅斯の商館と書いていましたが、
何故か魯(魯西亜=ロシア)館へ。
魯人の応接は甚だ辞譲である。
殆どが佛人の上を行っていた。
日暮に館に帰る。
つづく。
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