高杉晋作の航海日録①

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高杉晋作幕府貿易視察団に加わり、
文久2年に清朝上海に渡航します。
この時の記録が遊清五録で、
航海日録上海掩留日録内情探索禄
外情探索禄崎陽雑録と分かれ、
日記と情報記録として記載。
今回はこの中の航海日録を紹介します。

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航海日録
文久2年4月27日
官吏及び従臣奴僕等の計51人が乗船。
予は少し前より病をこじらせ、
まだこれが癒えていない。
この為に夜になって本船に乗る。
見送る者は木島亀之進半井春軒で、
※木島(来島)は来島又兵衛の嫡男。
 半村は長州の医師で維新後は海軍軍医。

両士は崎陽に留学中なので、
予を送ってくれたのである。
※崎陽は長崎の別名。
 漢学者が中国風に呼称したもの。

予の後から乗る従臣達は知らない人達だが、
その中で旧知の人が声を掛けてきた。
彼は浪速處士伊藤軍八という者で、
彼は文事に優れた人物で、
昌平黌で一年一緒だった人物である。
思わぬ場所で再開して同船同行となり、
奇遇なりと雑談をした。
※伊藤は大坂の漢学者。
この夜は船内は雑踏して居室は甚だ狭い。
予は病中で終夜眠れなかった。

文久2年4月28日
好晴。船中の皆は今日中に出航するいう。
しかし慌ただしいだけで船は出ない。
日本人は因循苟且で果断に乏しい。
これ故に外国人に侮られるのだろう。
嘆かわしい、恥じるべし。

4月29日
早暁。甲板上で舟子が騒動している。
舟子は帆柱に登って帆を巻く。
号令一声で船は出航。
小船数十艘が本船を引き、
船針は南西を向く。
上島沖に至ると小船は港に帰った。
神ノ島の事。
上島は肥前候の預かる砲台がある。
黄昏に至ると野母沖。雨が少し降る。
※野母は長崎半島の付け根。
夜に入ると東北の風が吹いた。

文久2年4月30日

早暁には船は後藤島の十里外。
五島列島の事。
昨夜は船が40里進み、
船針は西南西を向いている。
7時に後藤島が見えて、
西に女島男島の2島が見えた。
男女群島の事。
崎陽を去って百里という。
夜に入って風雨が激しくなり、
諸子は困窮の極みであった。

文久2年5月朔日
颶風狂雨。諸子は甚だ困り果て、
船は動揺して行李や人は倒れ、
※行李は葛籠の一種。
船酔いの人は酒に酔ったように蹲り、
死人のようであった。
終日皆黙り込んで話す人はいない。
予は病中ながら船酔いはせず、
強い人の部類に入った。
夜半に風は静まり諸士は大喜び。

文久2年5月2日
雨があがり晴。風は逆。
午後になって風が変わり順風。
船主が度数を測量すると、
船の場所は上海から20里という。
明朝には上海の山が見えるだろうと、
船主が言った。

文久2年5月3日
早朝に諸子が会場に山が見えたと言った。
水夫が帆柱に登って見るも、
山などは全く見えない。
前言は戯言だと知って甚だ失力。
英人水夫曰く、
昨夜は風が死んで船は進んでいない。
何で山が見えるのか?と。
日本人は航海を知らない。
故に船中の水を多く使ってしまう。
官吏は諸子に大いに警告し、
水の使用を厳禁した。
この日、初めて同船の水夫才助と話す。
才助は薩州藩五代才助である。
五代友厚の事。
彼は水夫に変装して船に入ったという。
才助は崎陽の偶舎に予を訪ねて来たが、
予は病気で話す事は出来なかった。
すぐに旧知のようになって本音で語る。
才助は主君に遂行して浪速に行ったが、
浪速辺りで狂士が何か企んでいると言う。
予はこれを聞いて内心で疑った。
終日風は弱く船中の諸子は嘆息。
夜半は風が起こるようだ。

つづく。
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