和歌山県東牟婁郡 トルコ軍艦遭難慰霊碑

江戸条約条約灯台樫野埼灯台」を訪問。
その手前にトルコ軍艦艦遭難事件碑や、
関連する施設が設置されていましたので、
これを記事として紹介致します。
現在もトルコ人日本人に友好的とされ、
トルコ共和国の75%が好意を持っていう。
その始まりが「エルトゥールル号遭難事件」で、
この事件で地元住民達が救助活動を行い、
生存者を献身的に看病したようです。
これが大々的に報じられて広まり、
後にトルコの教科書にも載った事で、
多くの親日家が育ったともされています。
※但し現在のトルコ共和国の調査では、
 事件を知っていると答えたトルコ人は、
 僅か29.9%とのこと。


オスマン帝国皇帝アブドゥルハミト2世は、
親善使節団を大日本帝国に派遣し、
その特使としてエミン・オスマン海軍少将が、
軍艦エルトゥールル号で来日しました。
明治23年6月7日に横浜港に到着し、
明治天皇に謁見して多くの贈り物を献上。
これに応えて明治天皇は使節団を歓迎し、
饗宴を開いて友好を深めています。
使節団は東京に3ヶ月程滞在しており、
その間に官民挙げての歓待を受け、
9月15日に帰国の為に横浜港を出港。
艦は疲弊して台風の季節だった事もあり、
日本側は修理を行う事を提案しますが、
これを断って予定通り出港しました。
しかし翌日に樫野崎沖で台風の遭遇し、
猛烈な風雨と波浪で自由を失い、
樫野崎近くの船甲羅岩礁に激突。
流入した海水が機関に浸水して爆発し、
エルトゥールル号は沈没してしまいます。
乗組員約600名は海に投げ出され、
その一部が樫野埼灯台に辿り着いた事で、
遭難事故が発覚して一大事となり、
住民総出で救出活動を開始。
懸命な捜索及び救護活動によって、
乗組員656名中69名が助けられました。
※生存者は後に日本軍艦で帰国。


トルコ記念館」。
トルコとの友好の証として建てられた記念館。
遭難したエルトゥールル号の模型、
遺品や写真等が展示されています。


土耳其國特派公使少将〇軍艦長以下
 兵士等五百八十壹人招魂之〇
」。
※一つ目の〇は記号(?)でオスマン・パシャ
 二つ目の〇読めない字ですが、
 おそらく「」と思われます。

エルトゥールル号の殉難将士の慰霊碑
犠牲者は回収されてここに埋葬されており、
この碑はトルコ共和国の資金によって、
昭和12年に建立されたもの。


弔魂碑(左)」。
昭和4年に建立された弔魂碑
右の碑は建立基金有志の碑と思われます。


土國軍艦遭難之碑」。
明治24年に建立された慰霊碑。
遭難事件の翌年に建立されています。



御野立所趾」。
昭和4年に昭和天皇樫野埼行幸し、
ここで休憩した事を記念した碑。
その際に遭難事件の慰霊碑建立が計画され、
帝国政府によってこれが進められますが、
これを知ったトルコ大統領が断って、
トルコ政府の資金で慰霊碑を建立されました。
昭和天皇が行幸したことによって、
あの慰霊碑が建立されるに至ったようです。


ムスタファ・ケマル・アタテュルク騎馬像」。
遭難120年と両国友好を記念して、
串本町の寄贈されたトルコの英雄の像。
トルコ共和国を建国して宗教と政治を分離し、
トルコの近代化を推進した初代大統領です。
本来この像は柏崎トルコ文化村に設置され、
そのシンボル的な銅像だったとのこと。
後に施設は閉鎖されて放置されますが、
これを憂いたトルコ大使館からの要請で、
ここに移設したようです。


樫野埼灯台」。
これは次の記事と致します。

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