久々に上五島(中通島)へ行きました。
これで3度目ではありますが、
約10年ぶりに[龍馬ゆかりの地]を訪問。
「龍馬ゆかりの地」。
亀山社中が運用予定のワイル・ウエフ号は、
ユニオン号に曳航され鹿児島に向かう途中、
暴風雨に遭遇して曳綱を切られ遭難。
慶応2年5月2日に潮合岬に辿り着き、
沖合に碇を下ろしましたが、
大波を受けて暗礁に乗り上げてしまい、
その引き波で転覆してしまいます。
乗員16名は海に投げ出されて、
そのうち12名が水死。
4名が奇跡的に生還しました。
この事故は[潮合騒動]と呼ばれており、
この場所は沈没地点の望める場所で、
犠牲者に祈りを捧げる龍馬像が建てられ、
現在は観光名所となっています。
「坂本龍馬の像」。
通称[祈りの龍馬像]。
事故を知った龍馬は現地に駆け付け、
犠牲者を弔う為に庄屋に費用を渡し、
墓碑の建立を依頼したとされます。
但し龍馬が訪れた記録は残っておらず、
伝承の域を出ないとのこと。
しかしながら龍馬は6月4日に長崎から、
ユニオン号で下関に向かっており、
下関に到着したのは14日であったとされ、
その間に現場に来ていても不思議ではない。
墓碑の依頼をした記録はあるので、
慰霊に訪れていたのかもしれません。
「ワイル・ウエフ号沈没地点」。
写真上部のテトラポット辺りが、
ワイル・ウエフ号の沈没した場所という。
遭難者の捜索、漂流物の引き上げ等、
約1ヶ月半掛かったとされており、
龍馬が来ていたとすれば、
未だその騒動も最中だった事でしょう。
「俗謡「潮谷そど(騒動)」」。
潮合騒動を唄った俗謡の碑。
そどよ、そど、そど、潮谷そどや、
五月二日の明け六つに
異国の船とは知らねども
どことも知れぬ、島見せぬ
島もだんだん見えるして
かねの錨をつけこんで
つけども錨がきかずして
石に当たりて水船に
流れて行くのがどこなれば
上口さしてぞ流れ行く
江ノ浜前にぞ流れつく
どなたも錦の衣装
こりゃ何事じゃと村中が
浜に騒ぎて大騒ぎ
国はいづことたずぬれば
国は薩摩の鹿児島で
積荷は何ぞとたずぬれば
大砲(づつ)小砲(づつ)つみまぜて
かなきんなどをさしにして
さぞやお世話じゃ浦田さん
この俗謡が犠牲者の墓碑発見に繋がり、
江ノ浜墓地で墓碑が発見されます。
「龍馬ゆかりの碑」。
江ノ浜墓地にある犠牲者の墓碑。
地元で[さつまじんさま]と呼ばれ、
由緒が判らぬまま祀られていたもので、
龍馬が費用を出して建立させたもの。
正面に、
高泉十兵衛、細江徳太郎、水主頭虎市、
同熊吉、水主浅吉、徳次郎、勇蔵、
忠次郎、嘉蔵、貞次郎、
幸助、常吉と記されています。
昭和43年に小学校教諭が発見したという。
「ワイル・ウエフ号の舵棒」。
騒動の際に引き上げられた舵棒。
昭和52年に友住郷の民家の改装中、
屋根裏から発見されたとのこと。
よくぞ残しておいてくれたものです。
前回訪問時は犬が吠えて、
近づく事が出来ませんでしたが、
今回は触る事も出来ました。
「ワイル・ウエフ号(スクーナー型帆船)」。
龍馬が購入した洋式帆船。
薩摩藩の後ろ盾で買った船で、
その活躍を大いに期待されたという。
亀山社中の黒木小太郎を船将(船長)とし、
龍馬が後継者に期待した池内蔵太や、
同社中浦田運次郎等が乗船。
潮合沖で沈没して12名が犠牲となり、
浦田と薩摩藩士村上八郎、
水夫の市太郎、三平の4名が助けられ、
船は海の藻屑となってしまいました。
俗謡によれば積荷は大砲、小砲とされ、
非常に物騒なものでしたが、
全て引き上げられたのでしょうか?
それともこの海に大砲がまだ沈んでいる?
それもちょっとロマンではあります。
■関連記事■
・長崎県南松浦郡 龍馬ゆかりの地
最初に訪問した際の記事。
・長崎県南松浦郡 ワイルウエフと潮合騒動
2度目に訪問した際の記事。
・長崎県長崎市 亀山社中跡
慶応元年に組織された亀山社中の本拠跡。