高須四兄弟 松平容保

左から、
八男松平定敬、七男松平容保
五男徳川茂栄、次男徳川慶勝
高須藩10代松平義建の子供らで、
幕末期に重要な藩の藩主であった4人を、
高須四兄弟と呼ばれました。
松平義建の子供は10人いるのですが、
他の兄弟は早くに死去しており、
この4人は波乱の人生を送りました。

3人目は三男(正式には六男)の松平容保

一番知られている会津藩9代藩主です。
京都守護職に就任したことが原因で、
波乱の人生に突入しました。
本音は自分自身も家臣達も、
京都守護職就任には反対でしたが、
会津藩たるは将軍家を守護すべき存在
松平春嶽家訓を引き合いに出され、
仕方なく京都守護職に就任。
春嶽も他藩の家訓をよく調べたものですね。
会津藩に限らず譜代大名は、
将軍家を守護すべき存在」ですし、
京都守護職だけが将軍家を守護する事では、
けして無いような気もしますが、
春嶽がうまく言いくるめた感じです。
じゃあ越前松平家はどうなの??
まあ容保がバカ正直だったんでしょう。

あの頃の京都の治安維持するなんて、
完全な貧乏くじ
後に創設された京都見廻組新選組が、
会津藩の支配下だったことも不幸でした。
慶応3年からの徳川慶喜の一連の奇行に、
容保が振り回されたのは運の尽き。
鳥羽伏見の戦いの敗戦は仕方ないとしても、
大坂城で体制を立て直していれば、
なんとかなったかもしれません。

江戸では慶喜に見捨てられ、
会津戦争は起こるべくして起こります。
約1ヶ月の篭城戦を経て会津藩は降伏。
容保は東京に送られ蟄居処分となり、
後に日光東照宮の宮司になっています。

歴史を知らない人達が、
「会津戦争の責任でなぜ死ななかったのか」
と容保を非難していますが、
この場を借りて説明しましょう。

武士にとって主君の命はなによりも尊く、
会津藩士が降伏を受け入れたのは、
主君の助命が条件でした。
もし容保が自刃でもしようものなら、
会津藩はその後も抵抗を続けたでしょうし、
どれだけの家臣が殉死したことでしょう?
また斗南に移住した旧会津藩士らは、
その希望を失う事になります。
一連の譜代藩の恭順も、
主君(慶喜)の助命と宗家存続が成った事で、
恭順の大義名分が立ったから。
主君は軽々しく死ぬ事はできず、
生き残る事こそイバラの道となる訳です。

昭和3年に大正天皇第2皇子と、
容保の孫和子が結婚。
その時やっと朝敵の汚名を晴らせたと、
旧会津藩士やその子孫らが喜んだという。
明治維新から60年目、
もう藩も武士もなくなった時代のこと。
容保が生きて子孫を残した事が、
生き残った者たちの希望だったのです。

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岐阜県海津市 高須陣屋跡
 高須藩の藩庁。

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