高杉晋作ウォーク(唐戸周辺コース)①

風雲児 高杉晋作ウオーク第5回 唐戸周辺コース
下関観光ガイドの会・平松資朗さんの案内で唐戸周辺を巡るというものです。
前回(第4回)も参加しましたが、知らない事も聞けて良かったので、
今回も参加させていただきました。

集合は、赤間神宮水天門の前。
例のごとく、みよちゃんと嫁さんと3人で参加しました。
前回より人は多く、何人か断ったとの事です。
参加者は「大河を見て幕末に興味を持った」的なミーハーな感じは無く、
心身共に健康で勉強熱心な中高年の方々が多かったようです。
もちろん参加者の最年少は、1歳11ヶ月のみよちゃんでした。


極楽寺」。
赤間神宮の横にある極楽寺は、奇兵隊屯所として使われました。


赤間神宮に戻ります。
赤間神宮は当時、「阿弥陀寺」という寺でした。
白石邸で発足した奇兵隊は、文久3年6月にこの阿弥陀寺と上記の極楽寺に移転しました。
明治8年に、赤間神宮に改称されましたが、
ここが阿弥陀寺であったとわかるものは、この「阿弥陀寺跡」碑だけだそうです。


平家一門の墓」。
ここは昔からそのまま残されているそうで、奇兵隊士もこの墓を見ていただろうとの事。


芳一堂」。
有名な「耳なし芳一」の木像が祀られています。
ここの説明文(前宮司が書いた)を見た司馬遼太郎が、
その文面を「上手い!」と絶賛したそうです。


安徳天皇阿弥陀寺陵」。
第81代安徳天皇は、壇ノ浦の合戦で海に沈んだ後、
漁師の網に掛かって見つかり、ここに葬られたそうです。
先ほどの平家一門の墓の並びですが、
位が高い人ほどこの御陵に近い位置なのだそうです。


春帆楼前の「日清講和記念館」と伊藤博文陸奥宗光の胸像。
日清戦争講和条約は、ここで調印されました。
当時、伊藤博文は首相、陸奥宗光は外相です。
下関条約の第一条には、
清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、
独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。

と書かれています。
ソウルにある独立門は、下関条約によって朝鮮国が独立したことを記念して建てられたモノだそうです。
残念ながら、現在は「日本から独立」と誤解されているようですね。


本陣伊藤邸跡」。
本陣は参勤交代などで大名が途中宿泊する地元有力者の邸宅です。
伊藤家は鎌倉時代から続いた名家で、当時の当主伊藤助太夫は、
尊皇攘夷思想を持っていました。
坂本龍馬のパトロンとしても知られ、龍馬の晩年の活動拠点として、
この伊藤邸の一室を貸し与えました。
龍馬はそこを「自然堂」と名づけ、夫婦の生活の場としました。
龍馬の死の際、お龍はここに居たようです。


引接寺」。
下関条約時の清国全権李鴻章の宿泊所です。
空襲で本堂は焼けましたが、この三門は当時のままで、
李鴻章もこの門をくぐったとされています。


写真中央の電柱あたりで李鴻章が襲われたそうです。
暴漢小山豊太郎はピストルで襲撃するが、幸いにも軽傷でした。
この襲撃によって日本側は、強気の姿勢からかなり譲歩する形で、
下関条約を調印する羽目になってしまいました。
こういう一暴漢の行為が、国益を著しく損じることになる例は、
古今東西沢山ありますね。


豪商伊勢屋小四郎邸があった場所。
この伊勢屋で晋作と龍馬は会談して、龍馬は小倉戦争参加を決めたそうです。
また、伊藤俊輔が暴漢に襲われそうになって逃げたそうです。


亀山八幡宮への参道(裏道)。
上記で暴漢に襲われた伊藤は、
この参道を通ってお亀茶屋に逃げ込んだのではないかとの事。


当時の周辺地図。
矢印のように伊藤は逃げたんじゃないかと想像できますね。
そして逃げた先で運命的な出会いをするわけです。

続きは次回。

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