下関市豊田町 浮石義民直訴之地

幕末とは全く関係はありませんが、
江戸時代幕府の関係性や、
年貢徴収方法などを知るうえで、
大変わかりやすい「浮石義民の直訴事件」。

椙杜家長府藩筆頭家老だった家系で、
豊田町周辺3100石を領地としていますが、
宝永5年(1708)の旱魃の被害を受けて、
領内は4割程度の収穫となってしまいます。
これに浮石村の村民は減祖を願い出ますが、
聞き入れられずに役人は通常の租税を徴収。
村民は困窮に喘ぎながらも借金で乗り切り、
翌年には天候に恵まれて豊作となりますが、
役人は逆に年貢二割増を命じました。

村民はたまりかねて一揆を計画しますが、
村役の庄屋らがなだめて善後策を検討。
江戸に赴いて直訴を検討していたところ、
諸国巡見使が長府領内を見廻ると聞き、
庄屋藤井角右衛門を中心に、
奥原の九左衛門、東の与市右衛門
蕨野の太郎左衛門及び、
柳元寺の六郎左衛門の兄豊吉が代表となり、
巡見使に直訴することになります。

長府領内の巡見は3日間の日程で行なわれ、
五人は宝永7年7月9日に、
杢路子川に架かる大橋の袂に身を潜め、
巡見使を待ち構えますが、
緊張してしまい機会を逸して失敗。
翌10日に亀ヶ原峠の煙草畑に身を潜め、
休憩する巡見使に直訴状を差し出しました。
巡見使は直訴状を取りあげて吟味し、
領主の椙杜元世が江戸勤番中の事なので、
あえて表沙汰にはしないが、
藩で公平な処分を取るように言い渡します。

この為に長府藩内でも一大事となり、
椙杜派と反椙杜派の反目から混乱も生じ、
取り調べた椙杜派の町奉行井上嘉六を、
反椙杜派の神野合右衛門が襲撃。
井上と同僚の田上彦兵衛が斬り殺され、
神野は正円寺で自裁し、
助太刀の父神野市兵衛も自宅で自害します。
吟味は上田六兵衛が引き継いで行い、
その年の12月10日に処分が決定。
直訴に及んだ五人の者は打首となり、
庄屋藤井角右衛門の息子佐二郎と、
豊吉の子弥助角島遠島となりましたが、
他の村役や百姓にお咎めは無し。
さらに訴状の主旨はおおよそ聞き届けられ、
宝永5年の借入証文は破棄となり、
同6年の年貢二割増は取り下げられました。

椙杜家家臣で租税徴収役の安野十兵衛は、
甚だしき不行届きの為に切腹。
椙杜家自体も一ヶ月の閉門及び、
知行四百石の減封に処される事となります。
※後に椙杜家は藩に暇乞いを願って許され、
 長府藩を離籍しました。

宝永7年12月22日、
直訴に及んだ5人は松小田刑場で斬首され、
遺骸は舜青寺の裏山に手厚く葬られ、
後に忌祭が許されたようで、
藩主からも供米も授けられたという。


浮石義民直訴之地」碑。
直訴が行われた現場に建てられて石碑。
最初に直訴を行おうとした場所では、
角右衛門は暑さと極度の緊張で卒倒し、
巡見使が通り過ぎて失敗してしまいます。
そこで太郎左衛門が直訴役を代わり、
煙草畑に隠れて巡見使を待ちました。
巡見使はここにあった茶屋で休憩し、
これを好機と太郎左衛門が飛び出して、
巡見使に直訴状を差し出すと、
副使岩瀬吉左衛門が受け取ったという。
ちなみにこの岩瀬吉左衛門の家系は、
1700石取りの直参旗本家で、
分家末裔に外国奉行岩瀬忠震がいます。

巡見使は3代将軍徳川家光の頃に始まり、
将軍の代替わり毎に行われたもので、
各藩の状況を視察して政治の実態を調査し、
行政の格付けを行いました。
その評価によっては処罰もあり得た為、
各藩では過度な接待が行われていたという。
※実際に島原藩高力家等が改易。
これは12代徳川家慶まで行われますが、
13代徳川家定就任の際に延期され、
14代徳川家茂就任の際にも同様に延期。
15代徳川慶喜の時に正式に廃止されます。
既に諸国巡見使が形骸化していた為、
意味を成さないものとなっていましたが、
浮石義民の頃には機能していたようで、
幕府の権威の程が伺えます。

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