大阪府大阪市 大仙寺/淀屋一族墓所

淀屋三郎右衛門は江戸初期の豪商。
現在も淀屋橋の地名(通称)で名を残しますが、
宝永2年(1705)に闕所処分で没落しており、
幕末期には既にありませんでしたが、
有名な豪商という事で墓所を訪問しました。


大仙寺」。
大仙寺は中央区谷町にある臨済宗寺院。
天正12年(1584)に創建されましたが、
大坂の陣の戦災によって焼失しており、
寛永3年(1626)によ再建されました。
伽羅は空襲にも耐えていたようですが、
昭和30年代の谷町筋拡張工事で、
境内の半分以上が道路となってしまい、
伽羅も全て建て替えられたようです。


淀屋一族の墓」。
右から、
性源个斎居士(3代箇斎)、
養源院以心常安居士(初代常安)、
玄个庵祖源道列居士(2代言當)、
卵塔(2代と3代の妻の墓)を飛ばして、
清味軒直室个庵居士(4代重當)。
初~4代淀屋岡本三郎右衛門の墓。
初代常安は山城国岡本荘の武士でしたが、
刀を棄てて商人となったようで、
伏見城築城工事での巨石撤去を、
他業者の1/10の金額で請け負っており、
この件で豊臣秀吉に知遇を得たとされます。
次いで中之島の開拓も手掛けており、
土木工事で高い業績を挙げ、
[淀屋]の屋号で材木商を営みました。
大坂の陣では徳川家を支援しており、
その功で名字帯刀を許されたようで、
戦後復興でも利益を得ています。
2代言當は途絶えていた青物市を再開。
雑喉場米市等も設置して市場を牛耳り、
糸割符にも参入して海外貿易も行い、
西廻航路の成立にも関わっています。
江戸時代の経済は米が根幹であった為、
米市を牛耳る淀屋は莫大な富を得る事となり、
3代箇斎、4代重當も安定的に隆盛。
但し4代重當は公儀に睨まれる事を察し、
番頭牧田仁右衛門に暖簾分けをしたという。
この予想は的中してしまい、
5代廣當闕所処分で財産を没収。
総資産20億両を誇った淀屋は没落しました。
暖簾分けされた牧田仁右衛門は、
故郷の伯耆国倉吉に淀屋を開き、
以降倉吉の淀屋は8代続きました。

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