宮城県白石市 世良修蔵墓所

奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵は、
傲慢な態度や侮蔑を繰り返し、
それに憤りを感じた仙台藩士らによって、
福島金沢屋で殺され、
その首級は白石に運ばれています。

白石の運ばれた世良の首級は、
月心院に葬られましたが、
明治3年に現在の陣場山に改葬され、
同8年に墓碑が建てられました。


奥羽鎮撫故参謀世良修蔵墓道」。
県道254号線南蔵王白石線の脇。
碑と説明板が目印です。


伊達政宗陣場跡」。
石段の途中に説明板が設置されています。
関ケ原の戦いの前哨戦で、
白石城を攻めた伊達政宗の本陣跡で、
台地となっていて白石城下の眺望が良く、
味方の包囲陣形も一望できる場所でした。
陣場山の名称もこれに由来しています。


世良修蔵墓所」。
石段を登り終えると現れる世良の墓所。
2基の墓標の他に石灯篭が建っています。
写真右側のものは木戸孝允の献じたもので、
左側は磐前県令村上光雄の献じたもの。


奥羽鎮撫総督参謀
 長州藩士世良修蔵之墓(右)」、
参謀付属長州藩士勝見善太郎
 参謀付属長州藩士松野儀助
 参謀世良修蔵従者繁蔵 墓
(左)」。
墓石の為賊の文字が削られています。
賊の為に殺されたという意味の文ですが、
殺したのは賊ではないという意味を込めて、
襲撃者の縁者が削ったと考えられています。

隣は一緒に殺された従者3人の墓碑。
勝見善太郎報国隊士で字が達者だった為、
世良の書記として付属していたようで、
墓碑には長州藩士と刻まれていますが、
正確には長府藩士でした。
世良襲撃の際に同宿しており、
襲撃時に惨殺されています。

松野儀助周防大島の農民の子で、
第二奇兵隊に入隊して世良に可愛がられ、
参謀付属として世良について来ていました。
世良と勝見が襲撃された事を知らずに、
金沢屋に入ってきたのを取り押さえられ、
金沢屋の裏手で惨殺されました。
身の回りの世話をしていた従者の繁蔵も、
長楽寺に呼び出されて斬られています。

この3人も同じく首級は白石に送られ、
首実験の後に月心院に葬られました。
世良の首級を見た仙台藩家老但木土佐は、
子捨川にでも投げ捨てろ」と、
言い放ったとされ、
開明派として知られた玉蟲左太夫も、
小便をかけてやる」と言ったという。
新政府寄りの考えを持つ真田幸歓でさえ、
こうなることはわかっていたという意味で、
歌を詠んでいますので、
世良に対する憎悪の程が伺い知れます。

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