福島県福島市 世良修蔵官修墳墓

世良修蔵奥羽列藩の恨みを買い、
福島で殺害されています。
世良は薩摩藩士大山格之助と共に、
奥羽鎮撫総督府下参謀となり、
僅か570名の鎮撫総督府と仙台に向かい、
仙台藩主に無礼な態度を取って、
会津藩への出兵を命じました。
これに対して仙台藩士達は世良を憎悪し、
僅かな兵で官軍だと威張り散らす彼らを、
悪意の対象として見るようになります。

何の落ち度も無い会津藩を攻めろという。
また奥羽鎮撫の名称も会津だけではなく、
奥羽全域を鎮撫するという意味と捉え、
横暴な彼らを鑑みれば、
会津の次は我らも危ういと、
奥羽列藩同盟が締結されるに至りました。

その発端が世良の暗殺になるのですが、
何故世良は傲慢で横暴であったのか?
長州の記録では粗暴であった記述はない。
世良は身分が低く家柄で出世は出来ません。
思想家でもありませんし武術家でもない。
身を建てる手段は学問でしかなかった訳で、
海防僧月性に学び、
江戸で安井息軒三計塾に入門し、
その塾頭を務めるほどでした。
奇兵隊では書記を務め、
第二奇兵隊では軍監に就任。
粗野な武人というより、
学者肌の人物だったようです。


福島稲荷神社」。
世良の官修墳墓は福島稲荷境内。
陰陽師安倍晴明が建立した神社で、
衣食住を司る豊受比売大神を祀って、
福島の総鎮守としたようです。

境内を探しても無いなぁと思っていたら、
境内を出て裏手からしか行けませんでした。

世良修蔵官修墳墓」。
戊辰戦争後に新政府軍により建立された墓。
神社北側に建てられていたようですが、
大正5年に碑が建て替えられ、
大東亜戦争後にここに移されたようです。


長藩世良修蔵霊神」。
大正5年に建て替えられたもの。
後ろの歌碑は山城屋和助の建立したもので、
白河小峰城が会津藩に奪われた為、
世良が殺された事を知らずにやって来て、
仙台兵に殺された弟の野村十郎をしのぶ歌。
しのぶれば その五月雨の夕まぐれ
    なみだの河野なみならぬかな


閏4月19日。
世良は福島城下の旅館金澤屋に投宿。
新庄の同役大山格之助宛てに密書を書き、
福島藩軍事掛鈴木六太郎らに密書を渡し、
新庄の大山に届けるように頼みます。
3人は福島藩家老斎藤十太夫に相談すると、
仙台藩に相談しようということになり、
その密書を仙台藩士瀬上主膳が読むと、
そこに奥州皆敵の文字が書かれていました。
これに激怒した瀬上らは、
同藩士姉歯武之進らに世良殺害を指示。
※世良殺害は奉行但木土佐らの承認を、
 既に受けていた。
翌日の閏4月20日に襲撃する事となり、
仙台藩士姉歯武之進、田辺覧吉
赤坂幸太夫松川豊之進
末永縫殿之允大槻定之進
福島藩士遠藤条之助杉沢覚右衛門
鈴木六太郎、目明し浅草屋宇一郎と、
その配下14~5名が金澤屋を襲撃。
就寝中の世良と勝見善太郎を捕縛し、
2人を阿武隈川の河原で斬首しました。
首級は白石に届けられ、
体は川へ投げ捨てられたという。

世良が傲慢な態度であった理由は、
当の世良本人にしかわかりません。
少ない兵力で大藩を動かす為に、
そんな態度を取ったとも推測できますし、
世良の密書の奥州皆敵いうのも、
その気持ちで当たるという意味にもとれる。
世良の本性が表に出たのかもしれませんし、
別の何かがあったのかもしれません。

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