京都府京都市 天授庵/梁川星巌墓所

天授庵にある梁川星巌梁川紅蘭の墓所。
星巌は美濃国曽根村の郷士稲津家の子で、
山本北山奚疑塾儒学詩文を学び、
江戸に遊学して市河寛斎に学びました。
帰郷して私塾梨花村舎を開き、
塾に通った又従兄妹の紅蘭と結婚。
星巌は放浪の旅に出発する際、
紅蘭に三体詩の暗誦を命じますが、
放浪から帰った3年後には、
三体詩の暗誦はおろか漢詩まで作り、
紅蘭は星巌を唸らせたという。
星巌はその後は放浪の旅に紅蘭を伴い、
岡山下関長崎を旅しています。
旅から戻ると江戸のお玉が池に居住。
玉池吟社を開いて詩壇の盟主となり、
諸士と交わり時事への関心を深めました。
弘化3年に京都に移り住むと、
尊皇攘夷を唱える様になりますが、
これによって幕府に目を付けられ、
安政の大獄で捕縛対象となります。
しかしその実行開始直後に、
星巌はコレラに感染して死亡。
世間に[死に(詩に)上手]と評さたという。


星巌梁川先生墓(右)」、
紅蘭張氏之墓(左)」。
梁川星巌、紅蘭夫妻の墓。
捕縛対象の星巌が死去した為、
幕府捕吏は変わりに妻の紅蘭を捕らえ、
京都西町奉行所で尋問しています。
しかし紅蘭は星巌の手紙等を焼却しており、
尋問にも星巌は国事を女には話さぬと、
全て知らぬ存ぜぬを主張。
獄舎では家で飼っているを気にかけて、
気が触れたように餌をやったか聞いた為、
余りにうるさいので釈放されたとか。
釈放後は京都で星巌の遺稿を出版。
私塾を開いて詩文を教えていたようで、
佐久間象山が訪ねて来た際は、
その洋装について注意しています。
※その数日後に象山は暗殺されました。
紅蘭は400以上の漢詩を残した他、
南画家としても才能があったようで、
星巌との合作も残っています。

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