大阪府高槻市 藤井竹外関連史跡

現代人の我々の感覚としては、
漢詩というちょっと小難しいものを理解し、
それに何かを感じるというのは少々難しい。

とはいえカタチは変わりますが我々の場合、
たとえば歌謡曲などの歌詞に、
多少なりとも感化される事もあります。
例えば40代中盤を越えた僕の場合、
残念ながら最近巷で流れているような歌謡曲を、
良い曲だなと感じる事はあっても、
良い歌詞だなと感じる事はできませんが、
10代後半から20代に聞いた歌謡曲などで、
心が揺さぶられた経験なんてのはありました。

例えばですが、ドリカムとかの歌詞で、
女性が自分の心境と照らし合わせて、
わかるわかる~」と共感し合っているのとか。
男の僕はそれに共感することは出来ませんが、
そういう気持ちなんだなと理解はできます。

僕なんかは尾崎豊の「米軍キャンプ」の歌詞で、
当時の状況がシンクロしてしまう部分があったり、
若い頃に夢を追いかけていた時、
ユニコーンの「ヒゲとボイン」という歌に、
自分の心境を重ね合わせていたものです。

歌詞ってのは空想で書かれる事もあるでしょうが、
やはりその人の「人となり」が見えて来るもの。
あるシンガーソングライターの歌詞は、
女性をとても尊いものの様に歌っていますが、
この人は離婚・結婚を繰り返しています。
僕が思うに、女性の理想形があるのだろうなと感じます。
それで許せない部分を見つけ離婚・結婚を繰り返している。
そんな感じで、歌詞でその人が見えてくる事もある。
歌詞って意外と人を丸裸にするものなのですね。

漢詩なんかもそれに近いのではないでしょうか?
つまりその人の「人となり」が、
その漢詩を読むことで感じられる訳です。
当時の人々がを選ぶ際には、
その人の書いた漢詩や歌などを参考にしていましたし、
入門するにも自作の漢詩や歌などを持参していました。
これは求人用パンフであり履歴書でもあるわけで、
考えたらその会社の沿革や企業理念とか見たって、
実際に入ってみなけりゃどんな会社かわからない。
面接に来た人の学歴を見たって、
仕事が出来ますっアピールされたって、
実際にいれてみなけりゃどんな社員になるかわからない。
そう考えたら詩作で判断もアリかもしれませんね。

さて本題。
幕末の高槻藩に高名の漢詩人藤井竹外がおり、
高槻藩の中堅藩士の家柄に生まれ、
若い頃は鉄砲術で家中無双。
しかし、いつの頃か詩作に傾倒し、
酒に浸って勤番を嫌い、病気と称して家に篭り、
療養を称して旅に出たりしてます。
奇行も目立ち、所構わず大声で叫び、
路上で寝ていたり、素足でふらふら歩いていたりと、
変人である事が知られていましたが、
彼の作る優れた七言絶句は遠く江戸にも知られ、
当時の人々の心を捉えました。

自然の繊細な美、風物、人情などを詠み、
時事などを取り上げる事は稀だったようです。


本行寺」。
藤井竹外は同市の乾性寺に葬られましたが、
後にこの本行寺に移されています。


竹外藤井先生之墓」。
葬られた乾性寺より移された墓石。
乾性寺には、現在も竹外の五輪塔があるようで、
京都長楽寺頼山陽の墓所にも遺髪墓があります。

竹外は頼山陽に師事して詩作を学んだようで、
その後は梁川星巌に師事した事から、
ごく稀に勤皇的な詩も作っています。


西南役 日清戦役 日露戦役 戦死者記念碑」。
本行寺境内にある石碑。
地元戦死者の慰霊碑なのでしょうが、
調べても由緒はわかりませんでした。
西南役戦死者記念碑に日清戦役と日露戦役を、
書き足したような感じ?

本行寺を出て高槻現代劇場へ。
敷地内に詩碑と旧宅跡碑があります。

藤井竹外詩碑」「藤井竹外邸跡」。
三ノ丸北大手門内にあった竹外の旧宅跡。
隠居まで住んでいたようで、55歳で隠居した後は、
京都三本木に移り住みました。
師の頼山陽や梁川星巌の旧宅に近い場所で、
悠々自適の詩作生活を送ったとされ、
慶応2年7月に死去。

竹外は勤王歌人と呼ばれていますが、
果たして本当にそうだったのでしょうか?
実際はただ目の前の情景を表現する感性人で、
時事はそこまで興味無かったのではないでしょうか?

幕末の志士らの詩作は激烈であり、
やはり行動も激烈でした。
詩が「人となり」を表すとすれば、
ただ情景や情緒の美を追求する人だったのかも?
それゆえ優れた作品が生み出されたのかもしれません。

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