英彦山事件②

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小倉に連れてこられた英彦山の衆徒達は、
首謀者とみられた11名を残し、
取り調べの後に英彦山に帰されました。
座主の甘露明王院権僧正教有は、
小倉室町の本陣村上家に幽囚。
取り調べも無いまま約一年後に帰されます。
徳川家康直々に保証された権利が侵され、
さらに座主まで捕える事への抵抗からか、
幕府の指示があったからかもしれません。
悲惨であったのは獄に繋がれた11名。
八百屋町の獄舎の環境は最悪でした。
土地は低湿、蚊やぶよが群生し、
悪臭鼻に付く土地であったうえに、
牢獄の中は土間のみで布団も無い。
さながら生き地獄だったとされます。

小倉藩士屋敷絵図」には、
八百屋町に「獄屋」の記載があります。

小倉市街を流れる紫川の河口付近。

現在の場所でいうと、多分ここらへん。

線路上ですね。
もちろん碑なんてありません。

捕らわれた英彦山衆徒11人は、
ここで厳しい拷問を受けます。
ですが元々修験僧である彼らは、
責苦を与えられた位では屈しません。
最期には糺方(取調方)が根負けして、
たまに形式的な取り調べを行い、
それ以上は深く追求されなくなり、
4年の間ほったらかしされました。

つづく 。
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福岡県田川郡 英彦山神宮
 英彦山と殉難衆徒を招魂する招魂社。

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