英彦山事件⑤

つづき。
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衆徒達八百屋の獄に入れられてから、
約3年の月日が流れます。

この11人の衆徒のひとり城島主税は、
牢獄の不衛生さが祟って衰弱してしまい、
投獄2年目の慶応元年8月7日に死去。

次に座主家家臣佐久間勝信も健康を害し、
慶応2年6月19日に死去します。

この二人は連判状に署名していませんが、
座主家家臣として企てに参加していました。
他の衆徒は体を鍛えた山伏だけあって、
地獄の獄中生活を耐え抜いていましたし、
座主家家臣生島大炊と、
屋根敷きの子彦助も健在でした。
しかし彼らにも悲劇が訪れます。

小倉藩領を舞台とした小倉戦争は、
熊本藩の離脱によって形勢が逆転。
続く征長軍総督小笠原長行の脱走により、
小倉藩は劣勢に陥ります。
小倉藩は籠城戦を展開するよりも、
守りに有利な田川まで退き、
長州軍を迎撃するという方針となり、
藩主以下3千名が小倉を離れました。

その際に獄囚は釈放されるのですが、
小倉藩の執政家老小宮民部は、
英彦山衆徒全員の処刑を指示。
政所坊有緜義俊坊順堂正応坊観道
本覚坊英山成円坊貫之生島大炊が、
獄から引き出され斬首されます。
小倉城は城下町と共に燃やされましたが、
その際に火を付けて廻ったのが、
解放された囚人達だったという。

上記の6名が斬首される間、
良什坊幸貫橋本坊間道
そして彦助は観音経を声高らかに唱え、
九字(臨兵闘者皆陣列在前)を切りました。
6名の斬首が終わっても、
それは止むことはなく、
獄史が呼んでも3人は答えません。
その間に火の手が近くまで迫り、
獄史は斬首をあきらめて逃亡。
しかし火は獄舎まで届かず鎮火。
観音経を唱え終わり、
外の様子が変だと感じた3人は、
6名の無残な斬首死体を発見したのみで、
他に誰もいませんでした。

6人の無残な姿に涙した3人は、
今後どうするか話し合い、
良什坊幸貫、橋本坊間道の二人は、
旧知の神官を頼るために西に向かい、
彦助は長州軍の到着を待ちます。

長州軍が小倉に入ったのは、
その翌日の事でした。

つづく。
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福岡県田川郡 英彦山神宮
 英彦山と殉難衆徒を招魂する招魂社。

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