良什坊幸貫、橋本坊間道の二人は、
旧知の伊藤という神官の許に辿り着き、
斬首された6人の供養を頼む依頼状と、
家族に無事を知らせる手紙を託し、
自分らは大宰府に向かいます。
大宰府では五卿に八百屋獄での件を報告。
筑前の信徒に厄介になりながら身を隠し、
秋月藩士広沢正記の宅に辿り着きます。
そこで如蔵坊英継に偶然再会。
三人は広沢の好意で20日余り体を癒し、
小倉に戻ることにしました。
一方で長州の中之坊豪端と祐玉坊慶典は、
長州軍と共に小倉に入ります。
二人は一目散に八百屋獄に駆けつけますが、
そこで目にしたのは6人の無残な姿。
二人が涙にくれていると彦助が現れ、
獄中死した2人の事、斬首された6人の事、
西へ逃れた2人の事を説明しました。
中之坊豪端と祐玉坊慶典は、
彦助を連れて長州藩の本営に戻り、
奇兵隊軍監山縣狂介に一部始終を報告。
6人の遺体の手厚い供養と共に、
彦助の奇兵隊編入を願います。
小倉城の落城後も小倉戦争は続きますが、
広沢宅で合流した3人も陣営に駆けつけ、
生き残った英彦山衆徒6人が再会。
豊後に身を隠していた浄現坊栄樹は、
如蔵坊英継と別れた後、
対馬藩の内訌に関与して捕吏に追われ、
長崎に身を隠していました。
長州藩と小倉藩(香春藩)の講和が成立し、
英彦山の小倉藩の役人も引き揚げると、
英彦山は再び平穏を取り戻します。
生き残った6人も帰ることとなり、
斬首された6人の遺体を掘り起こし、
白木の柩に詰めて英彦山に向かいます。
英彦山では座主以下の衆徒らが、
山麓の汐井川まで下りて、
全山総出で彼らを出迎えました。
後に明治政府は神仏習合を配し、
統一国教として神道の権威が確立。
しかし英彦山は天忍穂尊降臨の地であり、
その霊山を守ってきたのは仏門衆徒で、
この政府の方針に衆徒らは騒然とします。
ここに及んで甘露明王院権僧正教有は、
尊皇の大義に倒れた殉難衆徒の至誠を、
朝廷に表し奉らんと上京を決意。
京都に趣いて天顔を拝して天盃を賜り、
英彦山僧の功績が認められました。
後に英彦山は神社となり、
座主は高千穂の氏性を宣下。
英彦山宮司という地位を与えられます。
殉難した11名の義僧は、
奉幣殿直下の招魂社に祀られました。
「英彦山招魂社(田川護国神社奥宮)」。
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・福岡県田川郡 英彦山神宮
英彦山と殉難衆徒を招魂する招魂社。