京都府京都市 佐久間象山 大村益次郎遭難地

高瀬川の西岸に佐久間象山と、
大村益次郎の遭難地の碑があります。
彼ら2人には直接の接点が無いのですが、
何の因果か二人はこの付近で襲撃され、
非凡な才能を散らすことになりました。


木屋町通りより見る高瀬川向いの2つの碑。
佐久間象山は元治元年7月11日、
木屋町通りの路上で。
大村益次郎は明治2年9月4日、
この向いの長州藩控屋敷で襲撃されました。


象山先生遭難之碑」。
象山はこの日馬引き数人のみを供に、
御所内の閑院宮邸を訪ねており、
五条の本覚寺にいる知り合いを訪ねて、
宿所への途につきました。
しかし三条小橋辺りで刺客2名に遭遇し、
木屋町通りを馬を走らせて北上。
馬はその際に斬られますがなんとか走り、
御池通りの辺りで別の刺客が道を塞ぎ、
馬もここで力尽きて倒れ象山も落馬します。
河上彦斎(熊本藩)がとどめを刺したとされ、
象山の首は三条河原に晒されました。


大村益次郎卿遭難之碑」。
大村は控屋敷二階で長州藩士静間彦太郎
加賀藩出身の英学教授安達幸之助と歓談中、
2人の男が訪ねてきて萩原秋蔵と名乗り、
大村に面会を申し出ます。
来客中の為に若党の山田善次郎の命じ、
「明日兵部省に来るように」と伝えますが、
相手は是非とも今晩面談したいというので、
山田は引き返して奥に入ろうとする。
そこへ男らは踏み込んで山田を斬りつけ、
奥の部屋にいる大村らに斬り掛かりました。
安達と静間は窓から飛び降りて逃げてた為、
男らは大村と間違えてこれを追い、
安達と静間は賊に囲まれ惨殺。
山田も深手を負って翌日に死亡しました。
大村は額や膝など六ヶ所に傷を負いますが、
風呂桶に隠れて幸いにも致命傷を免れます。

しかし傷口から菌が入って敗血症となり、
山口藩邸から大阪仮病院に移され、
ここで楠本イネらに看護されていますが、
好転しない為に脚を切断する事となり、
その許可が遅れた為に手遅れとなって、
手術は行われたものの容体は回復せず、
11月5日に死去しました。

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