京都府京都市 高瀬川石標めぐり

高瀬川鴨川の西側にある運河
川沿いの木屋町通には問屋が立ち並び、
旅籠料亭なども軒を連ねており、
花街先斗町も栄えていました。

長州加賀土佐などの藩邸も置かれ、
志士達の宿所や遊び場でもあったようで、
木屋町通には多くの石標が発見できます。

前回記事佐久間象山 大村益次郎遭難地より、
木屋町通を南下してみます。

桂小五郎幾松寓居址」。
長州藩控屋敷の跡地で、
料亭幾松の軒先にあります。
この料亭幾松は令和2年に閉店したようで、
その門は閉ざされていました。
控屋敷に桂と幾松が暮らしたようですが、
その時期は不明とのこと。
控屋敷跡の一部が改装されて、
料亭として営業していたようです。

南下して御池通を越えた御池橋の縁に、
此付近加賀藩邸跡」の説明板があって、
さらに南下すると右側にパーキングがあり、
佐久間象山の寓居跡の石標があります。

佐久間象山寓居之址」。
象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、
ここを宿所としていました。
公武合体開国論を吹聴していたようで、
尊攘派志士らに狙われていましたが、
本人は護衛も付けずに市街を移動しており、
白昼堂々襲撃されて命を落とします。

さらに進んで姉小路橋あたり。

武市瑞山先生寓居之跡」、
ちりめん洋服発祥の地」。
土佐勤王党の首領武市半平太の寓居跡。
武市はここにあった四国屋丹虎を宿所とし、
朝廷や公卿、諸藩志士との周旋活動の裏で、
岡田以蔵などに天誅を命じていました。
現在は京料理泊という料亭となっており、
建屋の一部が現存しているようです。
※丹虎は池田屋事件の際、
 別動隊の土方歳三らが踏み込んだ場所。

隣のちりめん洋服発祥の地というのは、
ちりめんで洋服を作って売った場所の事。
SAKIZOという洋服メーカー発祥地です。

武市の寓居跡の右側の奥まった場所に、
吉村寅太郎の寓居跡の石標があります。

吉村寅太郎寓居之跡」。
文久3年に吉村は自費遊学で上京し、
丹虎の隣を宿所としたようですが、
名前はよくわかりません。

姉小路橋を渡った橋の袂。

従是西 徳川時代対馬宗氏屋敷跡
 附 桂小五郎寓居跡
」。
この橋の北側が対馬藩邸だったようです。
対馬藩と長州藩は友好な関係だったようで、
桂は同藩士大島友之允と懇意で、
この藩邸を宿所のひとつとしていました。
これを寓居というのかはわかりません。

さらに南下して三条通を越えて瑞泉寺へ。

瑞泉寺」。
豊臣秀次の墓所として知られる浄土宗の寺。


橋本左内訪問之地
 岩瀬忠震宿所跡
」。
門前に建てられた新しめの石標。
岩瀬忠震は安政5年に堀田正睦らと上洛し、
この瑞泉寺に2ヶ月間滞在しています。
勅許を得る事は出来ずに帰還していますが、
出立の前日に橋本左内が岩瀬を訪ね、
一橋慶喜の将軍擁立を話し合っています。

せっかくなので豊臣秀次の墓所を訪問。

豊臣英次墓所」。
秀次は豊臣秀吉の姉ともの子で、
実子のいなかった秀吉の養子となり、
後継者として関白を譲られています。
しかし秀吉の実子豊臣秀頼が生まれた為、
謀反の疑いで高野山に追放され、
切腹を命じられました。
秀次の首は首実験の後に三条河原に晒され、
子や側室、侍女、乳母ら39名は悉く斬首。
大量の遺体は一つの穴に埋められ、
その上に秀次の首を収めた石櫃が置かれて、
秀次悪逆塚」と刻まれました。
後に塚は洪水で流されてしまいますが、
高瀬川開削の際に偶然石櫃が発見された為、
幕府の許可を得て秀次を弔う瑞泉寺が創建。
発見された石櫃の上に供養塔を建てて、
一族家臣の墓を並べて供養しています。

さらに南下し龍馬通へ。
三条通-南大黒橋通の間には名がなく、
 平成24年に龍馬通と命名されたという。

酢屋」。
坂本龍馬が滞在した木材商酢屋の建物。
当時のままの状態で持ち主の変わらず、
今も木材商を営んでいます。


坂本龍馬寓居之址」。
酢屋の軒先に建てられた石標。
ここの2階に海援隊の京都本部が置かれ、
龍馬は通りに面した部屋を使ったという。
龍馬通の由来は勿論この酢屋から。

龍馬通を河原町通まで行って、
一本南の南大黒橋へ。

後藤象二郎寓居之跡」。
ホテルリソル京都河原町三条の入口の碑。
このあたりに醤油商壼屋があって、
後藤が常宿としていたという。
木材屋が酢屋で醤油屋が壼屋・・。
実にややこしい。

そのまま南大黒橋通を進み、
木屋町通に戻ってさらに南下します。
六角通北車屋通南車屋通を越え、
※この間は特に何もありません。
蛸薬師通土佐藩邸跡の石標があり、
さらに南下して八之舟入通の少し北あたり。

本間精一郎遭難之地」。
古い民家の軒先にあります。
本間精一郎は過激な尊攘志士だったようで、
文武に秀で長身で大柄であったという。
諸藩士と討幕計画を練ったり、
公卿らとの接触を図ったりしていました。
寺田屋事件で尊攘派が鎮圧されてからは、
その行動に生気が無くなって酒におぼれ、
同志を罵倒するなど次第に嫌われたようで、
先斗町で遊んだ帰りに襲撃されて、
この辺りで斬り殺されています。
襲撃者は岡田以蔵や田中新兵衛とのこと。

もう一度河原町通に戻り、
十軒町橋通真橋通間のスイーツ店の前へ。

中岡慎太郎寓居之地」。
土佐藩の御用達であった書林菊屋の跡で、
中岡慎太郎が常宿としていた場所でした。
中岡が龍馬と襲撃された近江屋跡は斜め前。
※近江屋跡は後日記事にします。

河原町通から真橋通へ。

勤王志士古高俊太郎邸跡」。
真橋通の懐石料理店志る幸の前にあります。
古高俊太郎は大津出身の勤皇志士で、
薪炭商枡屋湯浅喜右衛門の養子となり、
稼業の傍ら志士への支援や武備収集を行い、
間者の元締めも行いました。
しかしこれを新選組が察知し、
枡屋に踏み込まれて古高は捕縛。
尊攘志士らの連判状が押収され、
屯所での厳しい取り調べの末に自白し、
これが池田屋事件に繋がります。
※池田屋跡についても後日記事にします。
古高は六角獄舎に収容されますが、
禁門の変によって発生した火災の為、
逃亡を恐れた獄吏によって斬首されました。


先斗町」。
最後にせっかくなので先斗町を覗いてみる。
現在は飲食店が立ち並びますが、
昼間なので(コロナ禍?)人はいません。
でも綺麗に整備されているようで、
雰囲気はとても良い。

一応ざっと歩いてみましたが、
もしかしたら抜けがあるかもしれません。
途中に池田屋跡近江屋跡もありましたが、
別記事にすることにしました。

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