京都府京都市 池田屋跡

新選組の名を轟かせた池田屋事件
現場の池田屋跡は居酒屋となっています。


池田屋跡(旅籠茶屋池田屋 はなの舞)」。
新選組をコンセプトとした居酒屋で、
実に上手な商売であると思います。


池田屋騒動之址」。
池田屋の店先あります。
元治元年5月下旬。
新選組に捕らえられた枡屋喜右衛門は、
副長土方歳三の厳しい拷問によって、
本名(古高俊太郎)及び天皇拉致計画を自白。
更に尊攘派の会合が行われることが発覚し、
新選組はこれを襲撃する事となります。

当日の出動で近藤勇が池田屋へ向かい、
土方が丹虎に向かったというのは、
どうも後世のフィクションのようで、
近藤ら一隊が木屋町通に、
土方ら二隊が縄手通に向かい、
しらみつぶしに御用改めを行ったようで、
池田屋での会合を発見したのは、
偶然であったようです。
外から確認できたのかは不明ですが、
近藤隊10名は表裏入口を3名で固め、
近藤勇、沖田総司永倉新八
そして藤堂平助の4名が突入。
2階の志士らが会合する部屋に踏み込み、
10数名の志士らの会合現場を押えます。
しかし志士らは近藤らが4人の少数と見て、
立ち向かって脱出しようと斬り掛かります。
乱戦となって藤堂は額を斬られ負傷。
沖田は体調不良で昏倒。
永倉は左手親指を負傷しつつ最後まで戦い、
ひとり近藤は無傷であったという。
後に土方ら別動隊も到着して形勢が逆転し、
池田屋での戦闘は2時間程度で集結。
土方は遅れてきた会津桑名藩兵を遮り、
池田屋に近づけさせなかったようです。

逃走した志士も両藩兵に捕らえられ、
打取7、手負2、召取23の成果を挙げ、
※人数に諸説あり。
新選組の名は天下に轟くことになります。
しかし上記の4名の負傷者以外にも、
奥沢栄助安藤早太郎
新田革左衛門の3名が戦傷死しており、
掃討で会津、彦根、桑名の11名戦死。
ある程度の被害を出しました。

一方で志士側は、
宮部鼎蔵吉田稔麿北添佶摩
大高又次郎等、
多くの志士が闘死、自刃、捕縛となり、
尊攘派にとっても手痛い打撃となった他、
長州藩の進発派が激高する事となって、
禁門の変に繋がっていくことになります。

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